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近世なんて時代はなかった !?
真の中世が示す歴史学者の誤り。

近世不要論

This Concept Creates the New Standard,
Our Movements Infuse the World.

柿栖 恒昭 © 2017 Tsuneaki KAKISU

Introduction ー書評ー

近世は不要!
日本人の知らない、学校でも学べない中世の真実

古代、中世、現代における日本を始めとする世界各国の移り変わりは、歴史の教科書を暗記するだけでは決して学びきれない。
恥ずかしながら、日本や西欧諸国が先進国となる過程において中世という時代がこれほど重要だったとは本書を読むまで知らなかった。
中世という言葉を聞くと 、暗黒の時代をイメージしがちだ。重税に喘ぎ、戦に明け暮れる人たちの暗い影が思い浮かぶ。
しかし、それは中世の一片を垣間見ただけに過ぎない。じつは中世は人々の精神に多大なる影響を与え、今日の日本の発展になくてはならない存在だったのだ。
本書を読むことで、中世という時代が生まれた背景、構造、さらに中世が現代の日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのかわかる。
また中世という分権制、双務契約のある時代を経験した国(先進国)とそうでない国(発展途上国)に歴然たる差が生まれた理由にも納得するだろう。
さて、本書のタイトルは「近世不要論」だが、ただ近世が不要な理由を淡々と述べているわけではない。
古代から中世、そして現代への移り変わり、とりわけ中世の歴史的事実を丁寧な解説と共に学べる。
たとえば、秀吉や家康が中世王として行った統治が古代の専制君主が支配する世の中とどのように違うのか明らかになる。
今後の世界の人々の平和と安全、平等を守るための一案まで投じらていて奥行きのある一冊だ。

Profile

柿栖 恒昭 Tsuneaki KAKISU
西洋美術史家
著作
現代絵画の再生/2014年
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Preface

まえがき

人類の歴史は一般的に大きく四つに区分されています。古代、中世、近世そして現代の四つです。その区分は日本でも世界でも多くの歴史学者によって支持されています。しかし私はこの説を採りません。もっとすっきりとした区分である三つを提案します。古代、中世そして現代です。近世という区分を設けません。

歴史学者によると近世とは早期現代ということのようです。それは中世でもなく、現代でもない、その中間ということでしょうか。なんとも歯切れの悪い、ややこしい区分です。果たしてそんな時代は存在するのでしょうか。

この論文は中世を正確に描き出すことを目指しています。中世を明確に定義することにより近世という歴史区分は不要であり、むしろ不合理であることが証明されるはずです。これは中世論です。そして古代、中世、そして現代という歴史の美しい段階的発展を明らかにするつもりです。

中世とは文字どおり中世を構成する要素からなる時代であり、それ等の要素は古代にも現代にも認められない中世固有のものです。中世を構成する基本要素は次のようなものです。

支配者 封建領主
国家体制 分権制
安全保障 双務契約
政治形態 主従政治
思想 平等主義と現実主義の出現

これらの事柄のほとんどは中世とともに消滅するものであり、その一部は現代へと持ち込まれ改良されるものです。

これらについてはこの論文で詳細に説明しますが、例えば中世の王は古代王とは違う新しい型の支配者でした。古代王は権利だけを持つ絶対者であり、人々を専制的に支配していましたが、一方中世の王は権利だけではなく義務をも持つ不思議な支配者でした。彼は封建領主と呼ばれ、武士や農民を支配すると同時に武士や農民と双務契約を交わしています。

彼は契約を通じて武士から武力を得てそして農民から税を得ていました、その代り彼は彼らを保護し彼らの自立を支えた。それは彼らの契約義務でした。つまり中世において支配者と被治者とは上下関係にあると同時に相互補完の関係にもあったということです。

古代人は王に服従することで安全を確保した。一方、中世人は契約を結び、互いに力を分かち合うことで運命共同体を作り自立と安全を確保した。ここに歴史の大きな断層があります。このように中世の姿は古代との比較、そしてさらに現代との比較を通じてより鮮明に現れる。比較の基準は上に記された支配者や国家統治の方法や安全保障の組み方や政治形態など時代基盤というべきものです。単なる年代順の整理整頓ではありません。

中世を定義することで日本人が古代から中世へと移行した原因が、そして中世から現代へと移った理由が明らかになる。その歴史の大きな節目は過去2000年に渡り日本人が求めてきたものを私たちの目の前に明瞭に映し出します。さらにそれは歴史上の私たちの今の立ち位置を明らかにし、私たちの抱える問題、課題を整理し、そしてこれから私たちが進むべき方向を指し示すことでしょう。

日本の歴史には古代から中世への移行、中世から現代への変化という段階的な歴史のきれいな軌跡が存在する。その軌跡に近世という歴史区分はなじまない。むしろそれはその美しさや鮮明さを台無しにする。日本や西欧の中世をこれからお話ししますが近世という歴史区分の虚妄さを随時指摘していきます。

  • (a) 中世を通過し,民主国になっている国家

    古代、中世、現代という三つの時代区分を持つ

    日本 中世日本 12世紀~19世紀
    フランス 中世フランス 10世紀~18世紀
    ドイツ 中世ドイツ 10世紀~19世紀
    イングランド 中世イングランド 11世紀~17世紀

    そしてその他の西欧諸国

  • (b) 中世を通過した国民が建国し、民主国になっている国家

    西欧諸国の移民が建国した国

    アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど

  • (c) 中世を通過せず今も古代に留まっている国家

    ロシア、中国、中東諸国

    国王、独裁者、独裁政党、軍司令官、宗教指導者など特権階級が専制的に人々を支配する、言論の自由の乏しい国

  • (d) 中世を通過せず、古代からいきなり民主国になった国家

    インド、トルコ、韓国 他

    特権階級は淘汰され国民主権が成立している、しかしその社会は今も古代的要素に満ちている

Chapter 01
古代日本の統治

古代の不気味な国家統治

中世を論じる前に古代国を眺めておきましょう。古代は中世の前の時代です。古代を知ることで古代と中世の違いが明瞭に見えてきます。そしてその違いはどのようにして作られたのか、つまり古代から中世への移行とはどういうことであったのか、そして中世の誕生とはどんな意味をもっていたのかということが判明するはずです。

古代国は人が人を専制的に支配する世界です。そしてその支配は特権階級によって行われています。多くの場合、特権者とは国王です。あるいは王とその家族(血縁者)です。特権階級はその言葉通り人々との間に決して超えることのできない絶対的な差別を設けている。特権階級がすべての権力を握っているからです。王は立法も行政も司法も税制も軍制も独り占めしています。そして彼は自分の代理として全国各地に地方官(や兵士)を派遣して人々を一元的に支配する。地方官はその地の人々を管理し、そして人々から税を徴収し、それを都の王に送る。税や税率は勿論、王が決めたものです。

古代王には国家権力を他人と分かち合うという民主的な発想はない。古代には人々が互いに力を出し合って、一つの運命共同体を築こうとする開かれた社会運動もありません。人と人との関係は専ら命令と服従という上下関係だけに絞られていて、人々が水平方向に向け、対等につながろうとする要素は見当たりません。王が人々の言論の自由や結社の自由を認めなかったからです。

古代は王の意向次第という不安定な世界です。王の意見、王の想いがすべてを決める。現実、王は人々の生殺与奪の権利を持つ。ですから人々の安全保障は王への絶対服従です。
王に服従しないもの、王に反対意見を言うものは投獄されあるいは暗殺される。

国民は王が右を向けと言えば右を向き、左を向けと言えば左を向く。服従は彼らが生存を確保する唯一の手段です。まるで流砂のようで自主性は無く、その存在は紙のように軽く、風の力で右へ、左へと移動する。個人の意見や主張は存在し得ず、まして反政府の主張は許されない。

従って洋の東西を問わず、古代の思想家は王に対し徳を積むように、そして資質を高めるように勧めた。王が聖人君子になること以外に人々に幸せは訪れないからです。王が博愛の精神に富み聖人君子であったなら人々は秩序のある、安全な社会を持つことができるでしょう。人々の生命や財産はそれなりに守られる。けれども暗愚で残忍な王であれば人々は恐怖に慄きながら暮らし続けるしかない。

徳を積むようにという古代のこのような思想が現実、どれほど有効なものであったのかはわかりません。それにしてもたった一人の人間に左右される世界とは実に不安定で不気味です。しかも徳や資質などというあいまいなものに依存せねばならないとは。

人々が委縮して暮らすことは当然です。言論の自由の乏しい、結社を禁じられた世界では人々の結びつきは限られてしまう。家族や縁故者が群がる小さな集団が限界です。彼らは家族や縁故者だけは信用できた。それは本能的な親和性や情実に依存する閉鎖的な集団です。人々の輪はそれ以上に拡がることはできない。人を信用できないのです。

ちなみに中国の家族主義やロシアの縁故主義は世界的に有名です。それは昔のことではなく、今のことです。21世紀においても中国やロシアや中東諸国などの古代国では政界、経済界そして社会の隅々まで家族主義や縁故主義が支配しています。例えば大統領や独裁者の周りには家族や縁故者が群れて特権の甘い汁を吸う。法は片隅に追いやられている、そして役人はそれを見倣い、汚職を繰り返す。汚職は国内に曼延します。とても法治国家とは言えません。

もっとも家族主義や縁故主義は今日の日本や西欧諸国にも存在します。それは古代の名残というよりも人間に備わっている原初的な習性です。これからも消えてなくなることはありません。しかし民主国においてそれらが使用されるとき、あくまでも民主主義や(法の下の)平等主義が損なわれないことが条件です。もし民主的でなく、あるいは法に触れるようであればそれは不正なもの、社会正義に反するものとして社会的制裁を受け、そして法的に罰せられます。ロシアや中国ではしかし法や社会正義が家族主義や縁故主義を全く拘束しません。家族主義や縁故主義は人々の常識です。

ところで古代王は軍人や兵士を指揮します。彼らは王の命令の下、王を警護し王国の治安を守りあるいは外国との戦いで活躍する。しかしながら戦争において彼が王を保護し敵を倒したからと言っても王は彼に土地を与えることはないし、自立の道を提供することもない。征服した土地も人々もすべて王のものとなり、軍人や兵士は王の戦士であり続けます。自立した職業戦士(武士や騎士)とはなれません。彼らは奴隷のように義務だけを負っていました。

古代王は農耕民も支配していました。農耕民は群れて住み、小さな集落を形成していたかもしれません、しかしそこに彼らの自治はなかった。勿論、自由もない。王の法に従い、王の派遣する地方官の命令に服することで農耕民は生きながらえた。彼らは農耕に従事し、王の決めた税を納める。王は権利だけを持っています。王は彼らから税を得るが、だからと言ってその見返りに農耕民を保護する義務を負っていません。農耕民も軍人や兵士と同じく王の絶対的な服従者であった。

世界の多くの国々はこのような古代を通過してきました。日本の古代は奈良、平安時代です。西欧の古代は古代ローマ帝国やフランク王国の時代です。(フランク王国とは古代ローマ帝国滅亡の後に生まれた西欧全体を支配する広大な古代王国です。)日本と西欧は古代の次に中世へと一段、上がります。日本は12世紀に、そして西欧は10世紀に古代から決別して中世へと移行します。その時、日本においても西欧においても統治者と統治法の大きな変革が起こりました。それに伴い統治者と被治者の関係も根本的に変わり、政治形態や司法の在り方や人々の安全保障も一変した。

一方、ロシアや中国や中東諸国は1000年前もそして21世紀の今も古代です。それらは古代から中世へと進まず、いくつもの古代国が現れては消えていった古代国の盛衰の歴史であり、今日も王や独裁者、独裁政党、宗教指導者などの特権階級が人々を専制的に支配しています。国民は主権を握っていません。従って人々の安全保障は特権階級へ服従することで得られています。体制に服従せず、批判する者は投獄される。

ロマノフ王朝(1613-1917)はロシアの古代国でした。その300年間はすべて王による専制支配です。国王は土地と人々を独り占めしていましたが、その一部を貴族や修道院に与えることがありました。しかしロシアの王はそれ以外の者に土地を与えることはなかった。ですから王、貴族、宗教団体はロマノフ王朝の最後まで特権階級であり続け、その他の人々は彼らの服従者たちでした。特に農民は農奴と呼ばれ文字通り貴族の所有物でした。

一方、日本の古代でも王は貴族や寺社の土地所有を認めた。しかしロシアと違っていた点は日本の古代王朝は農民の土地所有をも認めたことです。それは古代国にあっては異例の処置でした。ですから農民たちは荒れ地を開拓し、あるいは衰弱した古代国の土地を強引に奪っていった。それは新しい土地所有者の出現でした。彼らはやがて中世という新しい時代を切り開いていく人々となる。それが武士です。武士は土地を持つ自立した戦士です。但し彼らの土地は自分の一族を養えるほどの小さな土地であり、しかし貴族や寺社の開発した荘園と呼ばれる大規模なものからは程遠いものでした。

ところで古代国の衰弱時、社会は混迷を深め古代国の法は通用しなくなる。そこは無法の地です。人々は法を信用できません。従って土地所有を正式に認定してくれる権威がどこにもありませんから土地を持つ農民は武力に依存するようになる。武力しかありません。その土地を仲間の土地所有者や地方の豪族やあるいは強欲な地方官に奪い取られないようしっかり武装する。

そしてそれだけではなく近隣の力ある封建領主(武士団の棟梁)と主従関係を結びます。というのは封建領主が大きな軍事力を持っていたからです、その領主に彼の土地所有を認定してもらえば彼は土地泥棒の立場から脱却でき、自分が正式な土地所有者であると名乗れます。封建領主は一時的とはいえ土地登記所を代行する。その時、周囲の者たちも彼を認め、襲撃しようとはしなくなる。

その代り彼はその領主に忠誠をつくす。それは戦役と呼ばれる契約義務であり、領主の敵と戦いその首を刎ねることです。ギブアンドテイクの関係です。そのため農民は武力を身につけ武術を磨いていく。それが武士の始まりです。古代国には存在しない新しい人種であり、土地を所有する自立した人々です。王に服従する古代の戦士とは全く異なる。

一方、封建領主もまた成長します。武士たちの忠実な働きにより領主は隣国を侵略し領土を拡大できます。こうした武士と領主の相互補完の取引を特に双務契約と呼びます。日本の歴史に初めて現れた水平方向の、人と人との対等で双方向の取引です。

そして人々は双務契約を維持するための厳しい生き方を身につけていく。それは誠実さや責任感や忍耐心を持つ生き方です。古代には存在しなかった中世の精神が涵養される。その精神は人類の発展にとって不可欠なものであり、中世社会を形成しただけではなく現代社会を維持するためにも必須のものとなります。

一方、ロシアには武士が誕生しませんでした。王の戦士はいつまでも王の戦士であり、自立の道は与えられなかった。農民は無論のこと、戦士も永久に土地所有とは無縁です。従って王と戦士の間に主従関係や双務契約は発生せず、ロシアには中世化は起こらず、いつまでも絶対差別の残る古代国であり続けた。

ロシア史においてロマノフ王朝の後に続くものは独裁政党であり独裁者でした。21世紀の今もロシアは古代国であり、ロシア人は独裁者の下で暮らしている。人々はロシア史上、一度も国民主権を勝ち取ったことがない。後で詳述しますが中世があればこそ現代という時代は成立するのです、中世は現代の孵化器の役目を務めたのです。従って中世を通過しない国に現代化は訪れません。

中国の清王朝は1912年に崩壊した。それはロマノフ王朝と同じ古代国でした。そして中国は今も古代国です。中国史も中世不在の歴史です。中国史は2000年に渡り古代国が消えては現れ、そして現れては消えるという古代国の盛衰史でした。隋、唐,宋、元、明、清と古代国が連綿として続き、それぞれの古代王が人々を専制的に支配してきた、そして今は独裁政党による専制支配が人々の言論の自由や結社の自由を奪っている。中国には一度も封建領主や武士は出現しなかった。従って人々は支配者への服従の中に生き続け、これまで双務契約や主従関係を経験したことがない。

一方、トルコを中心として栄えたオスマン帝国は1922年に崩壊し、インドのムガール帝国は1858年に消滅し、そして朝鮮王朝は1910年に滅びた。三つとも国王が人々を専制的に支配する古代国でした。19世紀から20世紀にかけてイギリスや日本などの帝国主義国に侵略され、インドや朝鮮は彼らの植民地となりその中で古代王朝は消滅した。第二次世界大戦後、独立し、やがて民主国家を樹立する。つまり彼らは数百年の中世を通過することなく、一足飛びに古代から現代へと移った。

オスマン帝国もまたイギリスやロシアとの対立や戦いを通じて崩壊した。そしてトルコ革命を経てトルコは現代化を果たす。トルコも又、中世を通過せずいきなり古代国から現代国へと移行しました。それは歴史の推移としては異例のことであり、不規則な進み方です。そこには中世化革命は起きず、封建領主や武士は誕生しません。双務契約も主従関係も出現しない。そのため彼らは中世の精神を身につける機会のないまま現代を迎えた。

しかしながら中世抜きの現代化には問題がありました。インドやトルコや韓国は今、真の現代化を果たせず苦悩している。残酷ですが歴史はその不規則な進み方を認めなかった。三つの国はその代償を支払っています。それらは中世を通過していないため人々は古代の生き方を引きずったままで、その社会は古代的要素に満ちています。中世の精神が決定的に欠乏している。

制度的に民主化を果たしたものの数百年に渡り服従の中に生き方を続けてきた国民は古代的な生き方を変えらずにいる。そのため人々は王や独裁者に従えても法には従えない。法や契約を破ることに特に痛痒を感じないのです。それでは民主政治に不可欠な法治主義は確立できません。

この論文はこの中世の遺産を論じます。

中世国成立の四つの条件

どんな強大な古代国もいつかは崩壊します。古代ローマ帝国もペルシャ帝国もモンゴル帝国も建国から数百年後に消滅した。その時、特権階級は没落し、あるいはその姿を変える。そこは秩序の失われた、法の消えた、危険な土地になる。頼れるものは武力だけです。人々は身の安全と財産の保全を求め、新しい法と秩序を構築しようとする。その結果、二つの方法が採られた。一つは新しい古代国家を改めて建国すること、そしてもう一つは古代国とは根本的に異なる中世国家を建国することでした。

多くの場合、衰退した国を襲うのは近隣の国です。彼らは新しい武器や戦術を用いて一気に侵略し、征服する。征服者は改めて王を名乗る、そして地方に彼の地方官や兵士を派遣し中央集権の支配体制を布く。新しい古代国の誕生です。ロシアや中国や中東諸国の歴史はこうした古代国の盛衰の繰り返しでした。それは現在も続いています。

一方、日本や西欧では中世国が誕生しました。それは世界の歴史の上では珍しいことであったといえます。それは地の利であったのか、それとも偶然の結果であったのか。

封建領国が形成された原因、つまり中世国が誕生した原因は次のようなものだと考えられます。四つあります。一つはその国は太陽の光、水、土そして四季に恵まれていたこと。そのため田畑や牧草地や森林が豊かであった。その国の一部だけではなく、北から南まで、そして東から西まで万遍なく肥沃な土地であったということ。従ってその国から生産される収穫物は豊富であり、一人だけの特権者(王)を支えるだけではなく、多くの特権者(封建領主たち)を支えることができた。

一方、荒れ地や砂漠、熱帯、寒冷地、山岳には多くの特権者を支えるだけの大量な収穫物は見込めない。そこでは支配者は一人に限ります。古代国に王が一人だけ存在することの所以です。ユーラシア大陸にはそうした国が多くみられます。

二つ目は古代国を引き継いだ国であること。古代国の崩壊あるいは衰退にあたり、古代王の従者たちはその役職を解かれ、あるいは自ら離れる。特に一定の地を統治していた地方官や彼の部下たちはその地を引き継いで自力で支配を続けようとする。その時、当然のことながら彼は古代国の権威や軍事力を最早、期待できません。そのため彼は新しい統治手法を開発した。

そこはすでに無法の地で弱肉強食の世界です。武力だけが支配する。そこで彼は人々と双務契約を交わすことにした。相互補完の体制作りです。彼は強大な武力を準備するため多くの武士を集めた。武士の武力こそ無法の地で生き延びる必須の手段です。その時、彼は見返りに武士の持つ土地を安堵し、彼の自立と安全を約束した。

そして同時に彼は近隣の村落と取引をした。彼は農民から税を受け、領国の経営費や軍事費に充てた。その見返りに領主は村を保護し、農民たちに自治を与えた。これが古代には存在しなかった新しい統治の手法でした。彼はこの二つの契約を通じて彼の領国を形成し支配を強化していく。それは主を失った古代の地方官たちが次第に封建領主へと変身していく過程であった。古代からの脱出、それが中世の始まりでした。

こうして古代とは異なる新しい支配体制が開発されました。中世の誕生です。この古代を中世へと変える大事業は中世化革命と呼ばれるべきものです。中世化革命とは聞きなれない言葉かもしれませんが、ここでは現代化革命という言葉と対を成すものとして使用しています。いうまでもなく現代化革命とは中世を現代へと変える大事業でした。日本やフランスやドイツの歴史にはこの二つの革命が深々と刻印されています。そしてその結果、これらの国の歴史には古代、中世、現代の三つの時代が出現することになった。

当然のことですが古代国の歴史には中世化革命も現代化革命も起きていません。古代国には古代の統治が2000年前から変わることなく連綿として続いています。そこでは新旧の古代王朝が変わるだけです。ロシアや中国やアラブ諸国の歴史です。

尚、注意すべきことですが中世化革命という言葉は今日、一般的に使用されていません。無いも同然です。今日の一般的な歴史観では中世という時代が正確に定義されていないため、その変革というものもまた指摘できず、取り上げることもできないのです。この論文の目的は新しい歴史観を提案し、中世を正確に定義し、そして中世化革命という言葉の重要さを証明することです。

たった一人の王が国全体を支配する古代国とは違い、中世では一つの国に幾人もの封建領主たちが林立し、それぞれの領地を必死に統治していた。その国は例えば50人の封建領主たちによって割拠されそれ故、50の相対的な警察権、司法権、徴税権など(自治権)が存在した。彼らは誰一人として突出した勢力を持っていません、ほとんど横並びの状態で互いに厳しく牽制し合っていた。

それが分権体制と呼ばれる国家体制です。それは古代国のような王を頂点とする求心的で強いまとまりをもつ統一体ではなく、複数の領主たちが互いにその統治を承認し合い、分散的で緩いまとまりをもった体制です。従って古代王の権力が絶対権力と呼ばれるとすると封建領主たちの権力はいわば相対権力と呼ばれるでしょう。

このような領主の誕生過程は日本や西欧に認められます。12世紀、中世日本の誕生地となる関東地方には十数名の武士団、例えば千葉氏、三浦氏、小山氏などが現れていました。彼らの多くは王族や中央貴族の系譜を引く者たちであり、地方官を経験していた。そして古代王朝の法や権威が失われつつある平安末期、彼らは武士たちを従え古代国の土地を浸食し、あるいは荒れ地を開発し自分の領地を拡大していった。

西欧でも10世紀、古代国であるフランク王国が全面的に崩壊し、その後に続く無政府状態の中に数十名の大小の封建領主が生まれていました。彼らもフランク王国の地方官出身の者がほとんどでした。彼らは古代国から引き継いだ地に城を築き、騎士と双務契約を交わしていた。

中世国誕生の三つ目の条件は地理的なものです。大陸から離れた島、あるいは大陸の端にあり、深い森で囲まれていた地帯は外国からの攻撃を受けにくかった。そうした立地に恵まれていた国が古代国に支配されることなく中世へと進むことができた。

日本はユーラシア大陸から離れた島国であり、外国の侵入を受けることは稀でした。中世初期、モンゴル軍が海を渡り日本を襲ったことがありました、武士たちはこれを撃退し日本の独立を守った。海はモンゴル兵の得意とする騎馬戦を封じた。日本は古代国に占領されることなく、封建領主はすくすくと育ちました。

西欧諸国はユーラシア大陸の西の外れにあり、しかも海や深い森林で囲まれていて外国の大軍が一気に進撃することは難しかった。それでも9世紀から10世紀にかけてフランク王国は外国の侵入を受けた。北からノルマン人、東からマジャール人、南からイスラム人の外国勢の侵入に直面した。国内は大混乱となった。

その時、フランク王国の地方官、軍人、兵士たちは奮闘し、彼らを撃退し王国の独立を保った。それは西欧人の歴史にとって決定的なことでした。西欧は古代国の支配下に組み込まれることを免れたからです、しかもほとんど同時に彼らのフランク王国も崩壊していきます。そこに一時期、無法の時代が訪れ、その中で地方官たちは次第に封建領主へと変身していく。その時、西欧に中世への道が開けました。

四つ目の条件は盟主の出現です。無法の地に林立する封建領主たちを束ね、彼らの上に立つ人物が現れることです。中世日本でいえば頼朝です。そして中世フランスでいえばカペー家の当主、ユーグです。中世の盟主は古代の王とは違います。中世王は領主たちの仲間でその中の一人です。征服者ではなくまとめ役であり、先導者です。彼は領主たちの土地を安堵する、決してそれを奪いません。彼は領主たちと相互依存の関係を築き、全国に分権制を布きます。それは彼らで国家権力を分け合うことでした。もし盟主が現れなければ領主たちはいつまでも互いに角を突き合わせ続けるしかなく、土地の奪い合いを繰り返す、そこに中世は生まれません。

中世誕生の原因はこれらの四つではないでしょうか。それらの条件をすべて満たしていた国が日本や西欧諸国であった。いずれか一つ欠けても封建領主は生まれない。ユーラシア大陸の多くの国はいずれかの条件を欠いていた。例えば土地の滋味は豊かであってもそれは国土の一部であり、限られていた。他の地域は荒れ地や砂漠や山岳などであり、作物はとれなかった。ですからその国の農業は多くの特権者を養うだけの力を持たない。そこで一人の王だけが支配者となり、すべての国家権力を一手に握った。

ユーラシア大陸ではほとんどの古代国は地続きで存在した。島でもなく海や森に囲まれてもいない。ですから古代国が崩壊するやいなやその近隣の外国勢が攻め込んで来る。それらも同じ古代国です。地続きですから一気呵成に彼らの大軍は進む。古代国の地方官は瞬く間に殺害される、ですから彼は封建領主に変身することができません。その結果、無法状態は長く続かず混乱は短期間に収束し、侵略者は新しい古代国を樹立し専制支配を始める。それは古代国の盛衰の歴史です。中世へと一段上がるきっかけがつかめない。ロシア、中国、中東諸国、インド、トルコ、朝鮮などです。

ここに古代王が何故、中央集権制を布き専制政治を実施するのかという根本的な理由があります。すなわち地理上、国境が地続きでありしかも国境線が長く続いている国々は互いに政治上、そして軍事上隣国の影響を直接受けやすい。そんな状況下で国家権力がいくつにも分散している分権体制はまとまりに欠け不安定であり、もし戦になろうものなら敗北は必至で国家は崩壊してしまうかもしれない。ですから支配者にとって国家の一体化、国家権力の集中化は不可避となる。ここに中央集権体制と専制政治が確立する。それが古代国の統治です。これらの国では分権制を採用することは難しい。ですから中世化革命は起きなかった。

このことから分権制を採用できる国とはどんな国であるのかということが理解できるでしょう。そんな国家は世界的に見て極めて例外的であるといえます。そして分権制の維持されていたその数世紀こそ中世と呼ばれる時代でした。一方、ユーラシア大陸の多くの国々は2000年以上に渡り古代国であり続けた。実に宿命的です。そしてこれらの国は中世へと進むことなく、21世紀の今も変わらずに古代統治を続けています。

以上からわかることは気候、地理、地形などの自然の状況が中世国成立の大きな要件であったということです。それらは人間の力をはるかに超えるものです。ですから日本や西欧の人々が特別な存在であったから中世に移行できたという彼らの優越性は認められません。しかし中世へと移行できたことによって人類の歴史は飛躍する。中世人は新しい、素晴らしい力を手に入れた。

古代王朝の衰退の過程

日本の古代は奈良、平安時代です。奈良時代前期は王朝の支配は順調でした。王は立法や行政や司法のすべての権力を握り、人々を専制的に支配していた。しかし奈良時代後半、8世紀半ばから王朝は次第に多くの問題を抱えていきます。特に王朝は財政悪化に苦しむようになり、そのことが王朝支配を弱体化させていった。この頃から平安末期、12世紀まで王朝はずるずるとなすすべもなく後退を続け衰退していく。その過程は日本が古代から中世へと移行する歴史でもありました。

王朝の衰退の主因は財政難です。王朝を支える貴族たちに給料を支払えなくなるほど困っていました。その原因は経費の増大と税収の不足の二つです。経費の増加は例えば大寺院の造営や人口増に対応する諸経費の増加、そして放漫経営などです。一方、税収不足は古代統治の構造自体から生まれたものです。というのは当時、税は王朝の耕地から上がるものだけです。何故なら古代国では国土のすべてが王朝の所有物でしたからすべての耕地は王朝のものです。ですからすべての税は王朝の耕地が準備していたことになる。だからといってこれ以上耕地を増やす力は王朝にはありません。

王朝は農耕民に重税を課した。支配者の常套手段です。それは一時的な税収増につながりますが、慢性化しますと逆効果になる。重税に喘ぐ農耕民が農地を放棄して逃亡します。その結果、荒れ地が増え、そして税収が上がるどころか急減します。

悩んだ末、王朝は次の手を考えました。それは王朝が新規の納税者を作り出す、という大胆な政策でした。これまで納税者はいわば王朝自身でした。税はすべて王朝の耕地から上がるからです。ですから王朝は王朝以外の者に税を納めさせようと画策します。

8世紀半ばのこと、王朝は既存の体制に風穴を開けた。人々が土地(耕地)を私有することを認めたのです。国の制度改革であり革命的なことでした。墾田永年私財法といわれています。それは国民に向けた国土の無償払い下げでした。

それは古代国としては珍しい政策です。そしてさらに革命的であったことは土地を私有できる人々は貴族や寺社ばかりではなく一般の農民も所有できたことです。農民の土地所有を認めるということは世界の古代国ではほとんど見られないことです。ロシアなどの古代国では王が貴族や修道院に土地所有を認めましたが農民に認めることはなかった。農民は貴族の所有物でしたから。

王朝の思惑は民間活力(民活)の導入です。王朝の力は限界に達していた。そのため民間の財力や働きに期待し、そこでまず生産基盤である土地を彼らに無償提供した。その結果、貴族や寺社や農民は開発領主となり、荒れ地を積極的に切り開き農地に変えていきました。その地は水利を備えた広大なものであり荘園と呼ばれた。王朝はその開発した耕地を検査して合格したものを荘園として正式に認めた。

荘園は貴族や寺社の私有地です。そこで農耕が行われその収穫物は貴族や寺社のものとなる。ただし勿論、貴族や寺社は王朝に収穫物の中から税を支払います。王朝から派遣される地方官がその徴税にあたる。その徴税こそ王朝が目指したものでした。つまり王朝以外の者(耕地)から税をとることです。王朝は新規の納税者を育成することに成功したのです。こうして王朝はしばしの間小康状態を保つことができた。

耕地の開発には莫大な財力が必要でしたので荘園を形成した者は貴族や寺社に限られた、一方農民は彼らに雇われる開拓者であり農耕民であり続けた。それでも時が経つにつれ9世紀半ばから農民も徐々に力をつけて独自に耕地を手に入れていきます。彼らは第二期の開発領主となっていく。それは中世へと続く道でした。彼らは武士の元祖です。その点、武士の登場は王朝が人々に土地所有を認めたことの結果であったといえます。

しかし王朝は再び財政難に陥る。貴族に給料が支払えない、そこで王朝は再び考えた。王朝はなかなかしぶとく、あきらめません。給料に代わるものを見つけようとしてたどり着いた答えは脱税の合法化でした。貴族は荘園を経営し、その収穫物の中から王朝に税を支払っていましたが今度、王朝はその税を免除すると言い出した。免税です。つまりそれが給料の代わりというわけです。

今まで税は荘園領主である貴族から王朝に納められ、そして王朝から貴族へと給料という形になって戻って来た。今回、荘園領主の税は王朝に一旦流れることなく直接、貴族が給料として受け取ることになった。手間が省ける。従って貴族や寺社は荘園の上がりのすべてを手に入れることになった。恐らく貴族や寺社は喜んだことでしょう。それもまた制度化されて不輸の権利と呼ばれた。

それでもあくまでも税をとろうとする地方官は存在し、免税権を得た荘園領主とはしばしば争った。それは形を変えた王朝と貴族との対立でもあった。王朝は貴族たちに免税権を与えたことで兎にも角にも彼らから見放されることなくこれまでと同じように支持され続けた。それはそれでよかった、しかし王朝は最早、荘園からの税を見込めない。財政難は全く解決されていません。むしろ困窮は深まった。

荘園領主はさらに不入の権利も得る。それは地方官が荘園に介入できなくなることであり、荘園は荘園領主の完全な私有地となった。それはまるで王朝の支配から解放された治外法権の地です。それが日本全国に存在した。古代国としてはまさに異様な状態といえます。国土はまるで現代のように民間の私有地であふれた。しかもその土地は王朝の支配から解放された独立地のようなものです。世界的に見てもとても珍しい古代国の姿でした。そしてこの一種の治外法権はやがて訪れる中世の国家体制である分権制の原点となる。

古代王朝の請負制

都から各地に派遣された地方長官の多くは下級貴族であり軍事貴族でした。彼らは王朝の指示の下、地方を統治していた。そんな地方長官に王朝はとうとう給料を支払えなくなった。そこで王朝は地方の統治法を変更した。王朝は地方長官を半ば切り捨てることで自ら身軽になることを選んだ。人員整理です。王朝は地方長官に徴税権や軍事権を与え自由にその地を統治させた。それは統治の請負制でした。これも一種の民活です。

そこで半分、自立したような地方長官が出現した。彼は独自に税率を決め農民たちから強引に徴税し、その中から王朝の取り分を京都に送り、残りを自分の収入とした。働けば働くほど、つまり税を強奪すればするほど彼の財産は増える。彼は私腹を肥やし始めた。その地方で彼は王のようにふるまい始めます。

この請負制で特徴的なことは王朝が一人の有力者に絞ってその権力を与えたのではないことです。例えば関東のそれぞれの地の地方長官に個別に権力を与えた。しかし関東全域の統治を一括請け負う唯一者はいません。従って地方長官たちは互いに牽制し合い、自分の任地だけを統治する。それは重要なことでした。

古代国が弱体化して請負制という手法に手を染めることは世界の古代史に時々現れます。ほとんどの場合、請け負った者が請負わせた者を裏切り、自分自身、新しい王となる。例えば9世紀のイスラムの古代王朝や11世紀のビザンチン帝国や15世紀の南インドの古代王朝で実施された請負の制度です。請負制はそれぞれイクター制、プロノイア制、そしてナーヤカ制と呼ばれた。

いずれの場合も衰退期に差し掛かった古代国のお話です。古代国の財政悪化は深刻で、部下に給料が支払えない、あるいは地方の混乱を鎮められない、そこで王はやむなく請負制を採用し地方官や地方豪族に軍事権や徴税権を与える。場合によっては土地すらも与えた。その見返りに王は厳しい徴税や紛争の鎮圧を彼らに命じた。

これらの請負制の特徴は古代王が複数の者に権力を与えたのではなく、決まってただ一人の者に与えたということです。そのためその請負者の支配力は圧倒的に強まり、その地の専制君主に変身していく。こうした請負制は王にとって致命的な政策でした。

その地方官は初めのうち王に従順に仕えます、集めた税の中から自分の給料分をとり、残りを王のもとに届けた、そして王の指示に従い治安の維持に努め、あるいは隣国からの侵入者を撃退した。しかしやがて彼は税のすべてを着服するようになる。王を裏切り自ら新しい王となって独立していく。それは古代国の盛衰記です。上記の三つの請負制はほぼ同じような経過と結末をたどりました。

関東の地に起こった請負制がこれらの古代国に起こった請負制と決定的に違うところは日本の王朝が複数の地方長官に地方統治を請け負わせたことであり、たった一人の有力者に請け負わせなかったということです。もしもたった一人の有力者が関東全域の統治を請け負うようであれば彼はその与えられた強権を利用し、小型の有力者たちを次々に滅ぼし、さらに古代王朝からも独立を企て自ら王となり関東の地に新しい古代国を築いたかもしれない。勿論、そんなことは起きなかった。古代王朝の請負制はきめ細かく行われ、それぞれの地は個別の地方長官に任せて、権力の集中化を許さなかった。

関東の地ではその結果、地方長官たちは私腹を肥やしながらも、互いに牽制し会い、関東国を乗っ取ろうとはしなかったし、実際できなかった。あくまでも彼らは特別の地方長官であり続けた。こうした権力の分立は中世の分権体制の原型といえます。このことは日本の歴史にとって重要な分岐点の一つでした。

これまで古代王朝は貴族や寺社や農民に国土を無償で払い下げてきた。荘園領主に免税権も与えた。さらに地方長官の首まで切った。しかしそれでも王朝の財政は安定しなかった。今度は上級貴族に給料を支払えなくなったのです。そのため王朝はやむなくもう一つの請負制を設けることになった。それは勿論、給料の代わりとして上級貴族に与えるものです。それは一国すべてを支配する地方長官を推薦する権利でした。本来、王朝のみが持つ特権です。

例えば上級貴族Aは越後の国の地方長官にBを推薦する、王朝はそれを認める。越後の地方長官になったBは越後で仕事をしますが、当然、推薦してくれたAに謝礼を支払います。それは莫大な謝礼であったはずです。それが上級貴族への給料になります。地方長官の地位が利権化された。上級貴族の中には一つだけではなく二つ、三つの利権国を持つ者もいた。

この制度は次第に姿を変えます、貴族AはBの代わりに自分の身内を推薦するようになります。その身内が実際越後に行くこともあればAの部下が行くかもしれない。いずれにせよそこで荒稼ぎをする、つまり強引に税を集める。そして集めた税の中から国に一定の税を支払い、残りのすべてをAが取る。それは勿論、大儲けであったことでしょう。言わばこの請負は上級貴族を地方長官にすることでした。

奈良時代から平安末期までの王朝の姿はまるで獲物のいない水槽でタコが自分の足を一本、また一本と食べていくようなものです。古代王朝は数世紀に渡り土地や利権を次々と手放していった。王朝はやせ細ったが、一方貴族たちは王朝から給料を上回るかもしれない報酬をしっかり受けていた。ですから王朝は彼らによってこれまで通り運営された。

しかしながら請負制の活用は仕事の丸投げを意味した。古代統治は無責任体制へと変質し、王朝は特に地方統治の能力を失っていく。京都と地方の間には大きな溝が生まれる。地方の実務は請負者である下級貴族や軍事貴族や地方の有力農民たちがすべて取り仕切る。そして彼らは王朝から一定の距離をとりながらその秀でた行政と軍事の手腕をもってその地の実質的な支配者と化していく。

平安後期は古代です、しかし中世の一歩手前の、変則的な古代でした。王朝は国土の大部分を失い、重要な権力を半ば手放した。それでも王朝は依然として権力の元締めとして振る舞い、日本国の支配者として法を定め、貴族たちに地方統治を請け負わせ、軍事貴族に地方治安を命じ、かろうじて中央集権制を維持していた。しかし衰退の過程で古代を構成する要素は次第に失われ、その代り中世へ至る道が切り開かれていった。それは例えば農民による土地の私有や治外法権や分立統治や一国支配という中世の基盤形成に役立つものが準備されたことでした。

Chapter 02
中世の誕生

封建領主の出現

中世の王は封建領主と呼ばれ、一人で自立できない不思議な支配者です。封建領主は一つの国に数十人誕生していた。古代王のようにたった一人だけではありません。彼らは文字通り林立し、国を分け合い、それぞれの地を独自の流儀で支配していた。

彼は武士や農民を支配する立場にあり彼らと上下関係を結んでいますが、同時に彼らと水平方向の関係をも結んでいます。それは奇妙な関係です。上下と水平の相反する関係が同時に存在するからです。それは中世固有の関係であり、古代にも現代にもありません。それは主従関係と呼ばれた。

封建領主と武士は運命共同体を形成する。両者の間に権利と義務が発生し契約の時代が始まりました。彼らの生存は契約の上に保障される。双務契約は家族や縁故者との仲良し同士の約束事ではありません。それは他人同士の生存をかけた厳しい約束です。中世の社会契約であり社会運動です。人々は契約を通して他人と(水平に)結びつく。それは中世人の出現であり、歴史上の大事件でした。

武士は領主を保護します、しかしそれはあくまでも領主が彼の土地を安堵しているからです。ですから安堵しなくなればもちろん、武士は領主との契約を破棄して、別の領主と新たな契約を結びます。それは領主にとっても同じことです。戦で活躍しない武士を領主は保護しない、彼の土地所有の認定を取り下げる。このことは領主も武士も自立した存在であり、対等な立場であることを示しています。武士は領主の奴隷ではありません。

中世人にとって契約義務を誠実に果たすことは死活的に重要な事です。契約当事者が不実であり、約束を反故にするようであれば、その契約は即座に破棄され彼らの安全保障は失われる。生存の危機は契約を破った者にだけ訪れるのではなく、破られた相手にも同時に等しく訪れる。それは文字通り死活的な契約であり、両者は運命を共にしている。その結果、契約を維持すること、つまり誠実であることは中世人にとって必須なものとなる。そのため中世人は不実を強く非難した。

こうして中世人は古代人と全く異なる生き方をした。中世人は人々が互いに保護し合うこと、それぞれの契約義務を果たすことで生存を確保した。一方、古代人は王に服従することで生き延びた。上下関係だけの古代社会には人々の水平方向の結びつきはほとんどありません。勿論、双務契約は存在しない。ですから契約を果たすための責任感や忍耐心を身につける必要はなかった。

古代社会において誠実なるものがあるとすればそれは王への服従の中に、あるいは家族や縁故者の小集団の中に見いだされるかもしれない、しかしそれは誠実さというよりも本能的な保身、あるいは原初的な親和性とでも呼ぶべきものです。水平方向へのつながりの乏しい社会では人と人との間に誠実さや相互信頼を見出すことは難しい。それは今日の古代国にも容易に認められることです。それは同時に古代人が不実さに鈍感であり、それを強く非難しないことを意味する。

中世人のほとんどすべては何らかの双務契約に加入していた。そして契約は中世の初めから終わりまで存続した。つまり封建領主の誕生した12世紀から封建領主が消滅する19世紀まで存続した。19世紀後半の明治維新において封建領主(大名)や武士が追放されて双務契約のすべては解約された。ですから双務契約は中世を貫いて流れる安全保障でした。それは中世社会を根底から支えていたのです。

中世人は数百年に渡り、この厳しい、緊張感のある契約を維持し続けた。その結果、人々の精神は鍛えられ、中世固有の素晴らしい精神、例えば誠実さや責任感、忍耐心などが涵養された。それらは人と人とを固く結びつける精神であり、高次で信頼感のある共同体を作り上げるものです。このような精神は古代における命令と服従の単純な上下関係の社会では決して育まれません。新しい精神の誕生は歴史を大きく画した。その結果、古代とは全く異なる中世世界が現れた。

双務契約の歴史的意義

歴史上には双務契約に似た取引があります。それはいつの時代、どこの社会にもあり、ある意味人類にはなじみ深い取引です。そしてこの取引と双務契約は一見、似ていてとても混同されやすい。次に記す事柄は双務契約とこの取引を比較し、その違いを指摘して双務契約の歴史的意義を明らかにしてみようとする試みです。

例えば支配者が自国内の商人や職人の中から特別の少数者を選び、彼らに商売上の特権を与える、その代り彼らから多額の税をとる。あるいはギャングが彼らの縄張りの中の事業主たちからみかじめ料をとる。みかじめ料とは用心棒や管理の代金です。他のギャング団などから彼らを保護するからという口実です。しかしこれらは正常な取引とは言えません。それでもこの保護と税の交換は双務契約と同じに見え、それ故これが混同の原因となる。

この取引は権力や暴力で非力なものを脅してお金を巻き上げる悪徳行為の一つです。支配者は権力でそしてギャングは暴力でこれらの事業主たちに命令し、あるいは半ば強制的に税を取り立てる。彼らが事業主たちに約束する保護はこの取引は正当なものであると見せかけるための体の良い口実のようなものです。

支配者たちにとって事業主たちは大切な財源です、けれども彼らは死活的に必要なパートナーとは言えません。というのは事業主たち全員がそこを離れ、税を納めなくなっても支配者たちは困りません。というのは支配者やギャングは収入を得る道を他にいくらでももっている。つまり決定的なことですがこの当事者たちの取引は死活的なものではないということです。保護もいい加減なものであれば納税も一時的なものです。それが運命共同体を形成することはないし、ましてここから誠実さや責任感が育まれることもない。むしろ事業主たちにおいては卑屈さやあきらめあるいは狡猾さなどの不安な感情が芽生えることでしょう。この取引は犯罪です。

このように人間社会においては保護と税の見せかけの交換はそのほとんどが悪の取引といってよい。そしてこの取引は古代社会の支配構造とよく似ている。つまりそれは古代王が権利だけを持ち、義務を持たない絶対不平等の古代社会の中で一方的に人々を搾取する行為と同じものだからです。そして残念ながらこの取引は古代だけではなく、中世にも現代にも存在する。勿論、民主社会の中でこれは国家体制ではなく、個人の犯罪として存在している。それは恐喝です。

このおぞましい古代社会を打倒する突破口になったものが双務契約でした。双務契約も保護と武力あるいは保護と税の交換です。そしてそれも上下関係に縛られている者同士が行います。領主と武士、そして領主と農民です。しかしこの取引は例外的に正当なものでした。上位の立場に立つ者は権利を持つだけでなく義務をも負い、そして下位の者に対する保護は口実やいいわけではなく本当の保護でした、その見返りにおこなわれた武士の戦役や農民の納税も一時的なものではなく恒常的で誠実なものでした。取引は歴史的に初めて双方向で対等で死活的で持続可能なものになった。

これは古代には存在しなかった人々の取引です。無法の地で自立を真剣に追求した中世人の社会運動です。自分たちの力で自分たちの生存を確保するという画期的な取引です。それは歴史的な快挙です。そして双務契約は数百年に渡り維持されて、中世の精神は中世人の中に育まれていった。その精神はやがて訪れる現代をしっかり支えるものとなる。その点、双務契約の開発は日本の歴史を決定つけたといえます。ここに双務契約の歴史的意義があるといえるでしょう。

武士団の形成

平安末期、関東の地は不穏でした。開発領主は未開発の土地がたくさん残っていた関東で積極的に耕地を開発していた。彼らは地方官として都から関東の地にやってきてそのまま居続けた下級貴族であり、軍事貴族であり地方長官の下で軍事や徴税の仕事をしていた有力農民などです。下級貴族は都に帰れば上級貴族に顎で使われる、しかし地方では殿様扱いしてもらえます。彼らは競って土地を開拓し、耕地を増やしていった。

当然、そこで土地の境界について紛争が起こる。その時、王朝の法は役に立ちません。王朝の影響力が衰えていただけではなく、その耕地は今まで存在しなかったものであり、記録に残っていないからです。土地の登記所は存在していませんでした。

開発領主の多くは地方官や地方の有力な役人でもあった。彼らはその権力を有効に使い領地の拡大とその地の支配を強化することができた。そんな領主であっても土地の所有を確保し続けることは大変なことでした。開発領主は二つの敵に囲まれていた。一つは競争相手である仲間の領主たちです。もう一つは地方長官です。彼らは開発領主が苦労して手に入れた耕地を奪い取ろうと企む連中でした。

領主たちはみな、競争相手です。隙を見せれば襲い掛かり、武力や謀略を用いて土地を掠め取る。そのため領主は多くの武士を集め、そして近隣のより有力な領主と双務契約を交わした。しかし開発領主にとって最も手ごわい敵は地方長官でした。王朝の力は衰えたといっても地方長官は国家権力を持っている。地方長官の中には権力を乱用する者もいる、あるいは武家内部の派閥争いもある。

当時、平家の勢力は西国ばかりではなく関東の地にも及び、多くの地方長官は平氏一族や平氏方でした。彼らは源氏寄りの開発領主を嫌い、その土地を奪おうとします。口実はなんでもいい、例えばその地の税が未納であるからという理由にします。領主はそんな地方長官に逆らえません。その結果、その土地は地方長官のものになる。泣き寝入りです。

そこで多くの領主たちは知恵を絞った。そして彼らの採った対策は自分の耕地を有力な寺社や貴族などの大荘園領主に寄進することでした。土地の所有者が大寺社や有力貴族であるとなると地方長官でもうかつに手は出せません。それに大寺社や有力貴族の所有する荘園は不輸不入の権利を備えていた、それは免税と地方長官の立ち入り調査を断る権利です。寄進によって領主の耕地もその権利を帯びるので地方長官はそれに一切手出しができなくなる。

開発領主は管理者となり、その荘園を実質的に経営する、そして土地の名義人を引き受けてくれた寺社や貴族にそれなりの謝礼を支払う。それは恐らく王朝に支払うべき税とほぼ同額のものであった。耕地を乗っ取られることを考えればそれはとても賢い方法です。しかし、関東の現実は厳しかった。そうまでしても土地はしばしば奪われた。関東の地では法も権威も役に立ちません。

開発領主の願いは関東の地に法と秩序がよみがえることです。しかも王朝の法ではなく関東独自の法です。それは他人の土地を奪う領主を厳しく罰するものであり、そして権力を乱用する平氏系の地方長官、あるいはすべての地方長官を関東の地から追放するものです。彼らは真に王朝からの独立を望んでいた。今のままでは安全も安心も手に入らず、いつまでたっても土地泥棒の身分から脱出できません。

頼朝と坂東武士

12世紀、関東の地では武家の間でいろいろな双務契約が開発されていった。武士と中領主は互いに保護し合い、中領主と大領主も保護し合う。それでは大領主に相当する千葉氏や三浦氏や小山氏などの有力武士団は誰に保護を求めるのでしょう。彼等よりも上位の者とは誰なのか。

源頼朝が関東に流れ着いたのはこのような時でした。その時の頼朝は王朝から追われた一人の武士にすぎない、強大な軍事力を持っていません。関東の武士たちはそんな頼朝を彼らの盟主に相応しいと思い、彼を盟主として選んだ。

源 頼朝
源 頼朝 1147-1199
中世日本の創始者 鎌倉幕府の初代最高責任者

源氏は天皇の血を引く高貴な武家であった。頼朝の父祖は関東の武士たちから慕われそして尊敬される武家の棟梁でした。そして今の頼朝は王朝から追われた身であり、いわば反王朝,そして反平家の武士です。しかも頼朝は強大な軍事力を持っていない。つまり関東の大領主たちを押しのけて関東国の独裁者になることは難しい。彼は安全パイでした。権威と反王朝と反平家と安全パイと四つが揃っていた。

頼朝は千葉氏などの武士団の申し出を受け、彼らの盟主となった。武士たちの真の狙いは関東国の建国であり、古代王朝からの独立であり、平氏一族の圧政からも解放され、そして何よりも彼らの土地所有に正当性が与えられることでした。その点、頼朝は最適な存在でした。一方、関東における平氏方の地方官や武士団は当然、頼朝の挙兵に反対した、しかし彼らは頼朝軍によって滅ぼされた。

頼朝と武士団は双務契約を結ぶ。関東の地から地方長官は追放され、平氏勢力も駆逐された。そして頼朝が関東国の土地登記所となります。完璧な法治主義が布かれたわけではないが、少なくとも領主たちの土地争いにおいては頼朝の公平な裁定が約束された。頼朝の契約義務は武士団たちの土地を安堵し、彼らの自立と安全を保障することです。例えば、千葉氏は下総の地(今の千葉県の北半分)を、そして三浦氏は三浦の地(今の三浦半島)を頼朝によって安堵された。

頼朝は武士団の土地を安堵した、その見返りに千葉氏たちは戦役義務を負い、頼朝のために敵と戦う。ギブアンドテイクです。頼朝の有事の際、彼らは鎌倉に駆け付け彼の敵と戦い、その首を刎ねる。<いざ、鎌倉>という文句がありますが坂東武士の頼朝に対する厚い忠誠心を表したものです。こうして頼朝と武士団は双務契約を結び、互いの自立と安全を確保した。

中世の分権制

頼朝は千葉氏などと同じ領主の一人です。彼は鎌倉の地など彼独自の領地を所有する領主です。同時に関東の支配者です。関東国全体について方針を決め、領主たちに指示や命令を下す。これは上下関係です。古代王が部下や農民に命令することと同じです。例えば彼は領主たちに号令をかける、王朝軍と戦うように、平家を追討するように、義経を捕えるように。そして頼朝は領主間の土地争いを公平に裁定する、あるいは戦功に応じて新しい土地や権力を領主たちに与える。

しかしながら関東国の王である頼朝は国のすべてを独り占めする古代王とは違います。頼朝は領主たちの領地に立ち入ろうとはしません。例えば彼は千葉氏の領地経営に介入しない。千葉氏の領地は彼が荘園領主に寄進し、自ら管理する荘園や公領の集積地です。それらは不輸不入の権利を帯びた耕作地であり、古代王朝もそこには入れず、徴税もできなかった。頼朝も古代王朝に倣い、彼らの荘園管理に介入しません。ですから千葉氏の管理する農民は千葉氏に従い、頼朝には従わない。そして千葉氏と契約する武士たちも千葉氏に従い、しかし頼朝の命令には従わない。

領主たちの領地は治外法権を持っている。平安時代から続く耕作地の絶対私有化でした。鎌倉時代においてもその制度は継続されていた。頼朝は同じ理由から三浦氏の領地にも小山氏の領地にも介入せず、そこから税を奪おうとはしません。頼朝が支配できるところは彼の領地である鎌倉などの地に限られます。こうして関東国は頼朝を含めた領主たちによって分割されそれぞれの領地では領主たち独自の荘園管理が行われていた。

その結果、関東国は領主たちによってその国家権力が分権されている国家となりました。言わば人々の間に水平の関係(対等な関係)が現れた。それは日本における分権統治の誕生でした。頼朝は領主たちを支配できても領主たちの領民を支配できない。ここには上下関係と水平関係と相反する二つが併存しています。それは中世独特の不思議な統治体制であり、古代にも現代にもありません。頼朝はまさしく中世王でした。

平安時代の不輸不入の制度は税をとる者と取られる者との攻防の末に生まれた荘園領主の権利でした。

大貴族や大寺社は財力をもって荘園を開発し、所有した。一方、武家は武力をもってそれを手に入れる。すべての物事は武力によって決められる、それが武士の時代です。土地は武士の力を映し出す鏡です。ですから領主は土地をとても大事にした。まさに自分の分身です。そして領主はこの特権を単に王朝や頼朝に対して免税権を主張するだけのものではなく、領地の自立や発展を促す一種の起爆剤として活用した。

それは不輸不入の制度の質的変化です。平安時代、荘園領主は自分で耕作地を管理せず他人に任せていた。一方、鎌倉時代において封建領主は自らその領地を管理し、運営する。彼は能動的にこの権利を活用し、耕作地を含めた地域を彼の王国として構築していく。領主はその領地の支配者であり、経営者となり、農耕だけではなく、彼の流儀でささやかなものではあるが手工業や商業の活動をも加えていく。それは徴税権や警察権だけではなく行政権や裁判権をもつ一種の自治体となって発展する。

領主は耕作地の単なる管理者とは違い、領地の経営者となる。それは管理権から発展した領主権の出現でした。古代の不輸不入という排他的な所有権は中世の開放的で動的な領主権へと変質する。領主権は鎌倉時代から室町時代へと次第に強大化していき、それに伴い分権制も充実していく。

室町時代、封建領主たちはとうとう荘園を所有することになる。彼らは室町幕府の政策の下、荘園領主から謀略や武力を用いて荘園を奪い取った。最早管理人ではない。封建領主たちは言わば雇われ社長ではなく、オーナー社長となる。

彼は守護大名と呼ばれた。そして地域の地頭と双務契約を結び、そして分国法を布いた。それは領主を大領主へと格上げした、そして領地を領国へと変えていった。彼はその国の徴税権や警察権だけではなく立法権(分国法などの制定)や行政権や司法権や軍事権などの権力のすべてを握った。それは一つの独立国でした。日本にはそんな大名領国が林立した。

その時、日本は無法地帯となっていたからです。室町幕府は弱体化して日本の支配権を失い、日本には武士たちの本領を安堵する盟主は誰もいなかった。武力だけが武士たちの土地所有を決定する、武力だけが土地所有を保障する。日本には喰うか食われるかの究極の武力抗争が始まっていた。

こうして古代の不輸不入の制度は500年を経て日本に独立領国を多数、出現させた。平安時代後期の荘園、そして鎌倉時代初期の千葉氏たちの管理するささやかな耕作地は今、武士や農民や町人や僧侶でにぎわいを見せる城下町を持つ大きな自治体となった。そして大名たちはそんな領国を奪い合う。

戦国時代は100年、続きましたがこの無政府状況を制した者は秀吉でした。彼が新しい武家の盟主となり、日本の支配者となった。彼は国家権力を独り占めすることなく、改めて生き残った大名たちに本領安堵を行い、その自治を認めた。新しい秩序の形成です。秀吉は大名たちの行政権や司法権や徴税権を尊重し、彼らの領国に立ち入ることはしません。日本に頼朝以来の分権制がよみがえった。そして秀吉の想いを継いだ家康は分権制を継続し、江戸時代の日本には200を超える大名領国(藩)が栄えた。

しかし分権制は明治維新において廃止されます。19世紀、西欧列強の砲艦外交に対し日本は一つにまとまらなければいけなかったからです。200以上に分かれて存在していた立法権や司法権やそして税も兵も一元化が求められた。廃藩置県が実施され、それまで分散していた国家権力は薩摩や長州の下級武士たちによって作られた中央政府に集権された。それは中世の終わりを意味しました。頼朝が関東国に分権制を布いた時から700年、経っていました。

相互補完と相互承認

関東の地に分権制は布かれました。けれども関東の地以外にそれは誕生せず、依然として古代王朝が中央集権制を布いていた。関東は特別の地でした。

関東の大、中、小の領主たちは互いに双務契約を結ぶことで彼らの領地所有と統治を確かなものとした。一方、大領主だけに限れば彼らは頼朝と双務契約を結び、安全を図りましたが、それはあくまでも大領主と頼朝の二者の安全でしかなかった。すなわち関東全域を覆う安全保障ではない。関東全域を覆う安全保障は双務契約だけによるのではなく、別の新しい制度が必要とされた。

それが分権制という中世の国家体制です。大領主たちは頼朝が現れるまで長い間、土地の奪い合いをしてきました。しかし彼らの力に大きな差はなく、皆ドングリの背比べで満足できるような決着はつかなかった。動くに動けない膠着状態の下、彼らの間に相互承認の動きが自然発生的に起きる。それは彼らの領地所有をとりあえず互いに認め合おうとする動き、妥協の産物あるいは一種の手打ちのようなものでした。

今の状態を維持しよう、隣の土地に侵入することはもう止めようという、合意です。但しあくまでも暗黙の合意であり、決して決定的なものではない。それは破られてしまうかもしれない不確かなものです。この目に見えない、不確かな相互承認に正当性を与えて確かなものにしたいという想いも当然、彼らの胸の内にあったことでしょう。そしてそのためには彼らの誰もが納得する権威が必要でした。

頼朝は彼らの相互承認を裏書きした。彼が権威です。大領主たちはその裏書に満足した。彼らの土地はそれぞれ正当性が与えられ正式に登記された。本領安堵です。そしてそれぞれは隣の領地に浸入することを止め、互いに認め合った。相互承認は彼らの管理権を認め合うこと、つまりそれぞれの警察権や徴税権を承認し合うことを意味します。目指していた分権制の成立です。

相互承認は当時、関東の地だけに認められた。こうした状況は西国には見られません。西国は当時の日本の先進地帯であり、貴族や寺社により開発された多くの荘園によって占められ、武士たち新しい開発領主の出番は限られていて武士団の群雄割拠というものは出現しなかった。ですからたとえ頼朝が西国に現れ、裏書を行っても相手にされなかったことでしょう。

ですから未開の地、関東国に武士団の群雄割拠があり、彼らの相互承認の合意らしきものが誕生していたからこそ頼朝の出現と裏書は意味を持った。相互承認の暗黙の合意がそもそも存在しなければたとえ頼朝が出現し、裏書を行っても大領主たちは納得せず、争いを続け、分権制は成立しなかったことでしょう。

関東の地の武士たちは相互補完という双務契約と相互承認という分権制を開発して無法の地を安全な地に変えた。この二つは中世の核とでもいうべきものです。法が秩序をもたらすように双務契約と分権制も秩序をもたらした。それは武士たちが無法の地を克服するために苦心して編み出した見事な制度でした。それはいわば法の代替物です。

二つはやがて日本全国に拡大し、そして鎌倉時代から江戸時代末期まで700年間、存在し続けました。中世の様々な社会制度や組織、産業や文化もすべてこの二つの上に誕生し、成長していった。

但しこの二つは決して万能な制度でもなく普遍的なものでもありません。あくまでも中世固有のものであり、古代にも現代にも適応できず、従って存在しません。双務契約と分権制の弱点や限界については後に詳述します。

源平合戦

平安末期、王朝は地方統治の請負制を実施していた。王朝は下級貴族や上級貴族に地方統治の権限を与え、その権力が大きな富を生み、彼らに莫大な儲けを与えた。その請負制の最後の局面で王朝は貴族ではなく武家に軍事警察権や地方官を推薦する権利など主要な権力をたくさん与えた。その武家とは平氏のことです。しかしそれは王朝にとって危険な選択でした。

当時、法や権威は失われて多くの問題は武力によって解決されるようになっていました。王朝はそのため軍事貴族を重用した。平氏は強大な武力を誇り、戦に強く王朝の守護神のような立場となりました。しかも平氏は軍事的にだけではなく王朝の内部にも深く食い込んでいた。清盛は王家や上級貴族と縁戚関係にあり、彼の孫は安徳天皇でした。

平氏は勢力を拡大した。平氏の与えられた(請負った)国は全国66か国の半分までを占めるようになった。それは異常なことです。全国の地方長官の多くは平氏一族や平氏方です。それは日本に王朝がもう一つ出現したようなものです。それは平家王朝です。清盛は<平家にあらざれば人にあらず>と言ったということです。

真実ですが、古代国に二人の王は並び立ちません。平氏は与えられた権力をふるい国家権力の独り占めを進めていった。平氏の統治体制は古代王朝と同じく自分を頂点としてすべての人々を専制的に支配するという中央集権制でした。つまり平氏には領主たちの土地を安堵し、分権制を布くという発想は全くなかったということです。それは頼朝の関東の分権統治と対極にある。その点、平氏はあくまでも古代の統治者でした。

平氏の盛衰はイスラムやインドの古代王国の歴史と同じです。請負者が請負を命じた者を裏切り自らが王になる。権力を手に入れた平氏は自然な流れとして王朝を次第に追い詰めていった。王朝の私物化です。そこで瀕死の王朝は平氏から逃れ全国の武士に救いを求めた。関東の頼朝はそれに応え、平氏を討った。

頼朝は源平合戦に勝利しました。頼朝の勝因は幾つかあるでしょうが次の理由もその一つかもしれません。頼朝軍の主流は彼と主従関係を結ぶ武士たちでした。関東の武士が中心です。彼らは平氏一族や平氏方の地方長官に恨みを持っていましたから当然、攻撃は過激なものになったことでしょう。ただそれだけではありません。もっと根本的なものがあった。それは彼らが頼朝との双務契約に基付いて忠誠心と功名心と二つを備えていたことです。

頼朝による土地の安堵(本領安堵)は彼らに頼朝への強い忠誠心を植え付け、命がけの戦いを演じさせた。同時に彼らは新恩給付を目指し戦功をあげることにも集中した。例えば敵の大将の首を獲ることです。功名心です。戦功はその武士に新しい土地と領地支配権をもたらす。新恩給付は守護、地頭の制度に直結していきます。

一方、平家軍には主従関係はありません。清盛は彼の戦士と双務契約を結んでいない。上下関係だけのある古代の軍隊です。本領安堵も新恩給付の制度もない、従って戦士たちの中に忠誠心や功名心は育まれない。単に服従心だけがある。ですから戦局が不利になれば我先にと一斉に逃げ出す。戦場において服従心は紙のように薄い。しかも平家軍の上位に立つ者は平家の家族だけです。実に古代的で排他的な家族経営です。頼朝の武士たちの戦意の高さ、熱さはここには全くありません。

古代王朝は頼朝によって救われた。イスラムやインドの古代国の二の舞にならずに済んだ。しかしだからといって古代王朝がそのまま継続したというのではありません。源平合戦は軍事貴族同士の単なる闘争では終わらなかったからです。それは明らかに時代を大きく回転させ、日本を古代から中世へと移した。

源平合戦は中世人が古代人を打倒した記念碑的戦でした。源平合戦は古代と中世を分ける分水嶺となった。この合戦を機に日本の統治者は古代王から中世王へと変わり、単純な中央集権制は分権統治へと姿を変える。古代の素朴な上下関係は重厚な主従関係へと移り、そして情実で結ばれた閉鎖的な家族集団は誰にでも開かれた共同体(契約社会)へと変わった。

中世は実にこの合戦を出発点とした。頼朝による地頭の設置や鎌倉幕府の開設はこの戦の派生物であった。もしこの合戦に頼朝が負けていたら日本に中世は誕生しなかったかもしれません。王家か平家かいずれかの古代の統治者がそのまま支配を続けたことでしょう。

この時、頼朝が平氏だけではなく京都の王朝をも打倒していたならばこの先、武家が唯一の日本の支配者となり、分権制は直ちに全国に布かれ、日本に二都物語は生まれなかったはずです。しかし頼朝はそうしなかった、恐らく平安末期に生きた武士として王朝の破壊という発想は持っていなかった。そして彼は武家政権の確立に腐心していた。

ですから中世化革命は中途半端に終わったともいえます。中世は始まった、しかし頼朝のクーデターは古代王朝を直ちに崩壊させるまでには至らなかった。古代王朝はこの戦いから約200年間、存続した。ですからその間、日本には古代王朝と武家政権とが並び立ち、ともに日本を治める特殊な時代が生まれた。中央集権体制と分権体制とが交錯した二都の歴史です。

そして室町時代の中頃、荘園制度は全面的に破壊され、王朝、王家、貴族は生存基盤を失った。武家が荘園をすべて乗っ取ったからです。それは古代王朝の実質的な崩壊でした。従って武家が唯一の日本の統治者となります。ですから日本の古代は14世紀に終わりを迎えた、といえます。

一方日本の中世は12世紀から始まっていましたから古代の終わりと中世の始まりがずれています。このずれは日本独特のものです。西欧にはありません。西欧では古代国の全面的な崩壊の後に中世国が出現したからです。二つの政権が同時進行する二都物語は生まれなかった。従って日本の歴史において12世紀から14世紀までの200年間は古代と中世とが重なり合って過ぎた時代であり、古代から中世への過渡期ともいえます。

Chapter 03
武家の支配

中世の政治の始まり

千葉氏は下総の領民を支配する封建領主ですが、言い換えれば彼は下総を代表する者ともいえます。そして同じく三浦氏も三浦領地の代表者といえます。勿論、彼らは選挙によって選ばれたのではなく、武力と謀略をもってその座を獲得したのですが。それでも彼らは民主政治における地方選出議員に似ている。つまり千葉氏や三浦氏の後ろには多くの下総の領民や三浦の領民が存在している。

頼朝は関東国の政治を行う最高の責任者ですが、彼は千葉氏など領主たちの意向を踏まえながら政治を行う。彼の独断は許されない。領主は頼朝と双務契約を結ぶ者であり、同時に多くの領民を代表する者です。ですから頼朝は領主たちの立場、要望、課題などを集め、調整して関東国の政策を決めていく。それは分権制という国家体制が作り上げた新しい政治形態でした。

明白なことですが頼朝は専制君主ではありません。彼は古代王ではない。彼は例外なく関東国全体を視野に入れてそれぞれの課題を把握し、熟慮したうえで政策を決める。そうしなければ関東国全体の整合性はとれなくなり、彼の統治は失敗する。それは一種、民主的な統治といえます。日本の支配者は日本史上初めて自分一人の意向だけでなく他者の意見をも取り入れて政治をするという経験をもった。当然、その支配はより重厚なもの、より高次なもの、より複雑なものとなる。

頼朝が領主たちの意見を聞くということはいいかえれば領主たち(頼朝の仲間たち)が頼朝に助言をするということでもあります。戦についてであろうと平時の政策についてであろうと領主たちは自分の意見を頼朝に伝えた。頼朝はそれらを聞いて総合的に判断し、政策を決定する。この時、彼らの助言は戦役と同じく領主たちの頼朝に対する義務でもあった。それは両者が運命共同体を形成しているからです。助言は時には頼朝にとって苦いものであることもあった。

頼朝だけではなく、秀吉も家康もそして15代将軍、慶喜も皆仲間の封建領主たちと協議し、彼らの助言を聞いて政策をすすめていった。北条の執権政治や秀吉の五大老、五奉行政治などそれぞれの時代に合わせた領主たちの政治が行われた。特に政権の樹立期やあるいは政権の危機においては領主たちの助言は必須なものであった。

従って中世王である頼朝の仕事は大きく分けて二つあります。一つは平時においての仕事です。それは鎌倉など自分の領地(王領地)を経営することです。それは一人の封建領主として当然の仕事です。そして関東国全体に対する経営も勿論彼が最高責任者として行いましたが、それは限定的なものでした。いくつかの領地をまたいで発生する問題に限り対処した。

例えば領主同士が領地の奪い合いをした場合です、この紛争は関東国の盟主でしか解決できないものですから頼朝は最高裁判所の長官のようにその紛争を調停あるいは裁定する。あるいは複数の領地を貫いて一本の太い道路を建設する時、そして武士全員に規律を徹底する時などです。但しそれぞれの領地においては領主が為政者であり裁判官です。頼朝は他の領主の領地経営には介入しません。それぞれは独立しており、司法も行政も税も税率も領主たちが責任をもって取り仕切っています。

頼朝のもう一つの仕事は戦におけるものです。例えば古代王朝と戦いを始める時は頼朝が関東国の全軍を集め、戦いの指揮を執ります。頼朝は鎌倉の軍、千葉氏の軍、三浦氏の軍など多くの軍を束ねて進軍する。彼は軍司令官です。そして戦後においては本領安堵や新恩給付をおこない、武士たちをねぎらう。それは武家の棟梁として、そして領主たちや武士たちと双務契約を交わしている契約当事者として頼朝は契約義務を誠実に果たします。

一方、古代には封建領主のように多くの人々を束ねる代表者は王以外に存在しなかった。すべては王に服従する個人ばかりです。地方長官は多くの農民を束ねていますが、彼は王の代理人に過ぎない。王の一声で彼の任期は終わる。王が政治を行う上で考慮するのは自分自身の意向だけです。単純です。ですから王は一方的に、強圧的に王権を振るうことができた。それが専制政治です。そしてそれを制御できるものは王自身が持つかもしれない徳のみです。実に不条理で不気味な世界です。ロシアや中国や中東諸国の現実です。

古代にも助言はありました。役人や軍人は王に助言をした。しかしそれは義務ではなく、服従の助言です。つまり王に対する貢物であり、王を喜ばせる甘い言葉です。少なくとも王を批判し、諫める助言はありません。王権が強大になればなるほど王の耳には甘い言葉しか聞こえてきません。

そして現代の政治は民主政治です。職業政治家は国民一人一人の立場、要望、課題を集めて、調整し政治を行っていく。その多くは選挙と議会を通じて行われるものです。政治家が独断で政治を行えば彼または彼女は独裁者と非難されその座を追われ法の裁きを受けることになる。職業政治家が国民の意向を無視することは許されない。

古代には専制政治が行われ現代には民主政治が行われている。中世の政治はその中間的なものといえます。古代王の政治は自分中心に行うものであり、中世王である頼朝や秀吉や家康の政治は自分たちの仲間である封建領主たちの意向を考慮し、時には直接彼らと議論を交わしながら行うものであり、そして現代の政治は国民すべての意向が考慮され、そして多数決原理に則って政策が決定されていく。

このように政治形態は古代から、中世そして現代へと変化した。そこには人々が自分の意見を平等に主張できるようになる段階的な経過が示されています。それは言論の自由の広がりを示す段階的な経過であり、あるいは国民の意志が表明できるようになる経過でもあります。一人の王の意向だけの古代、複数の領主たちの意見が主張される中世、そして国民全員の主張が展開される現代。政治形態の変遷は確かに人類の歴史が進歩の歴史であることを物語っています。

それでは中世の政治は何と呼べばいいのでしょうか。それは専制政治ではなく、民主政治でもない。しかし歴史学者は適切な言葉を用意していないようです。残念ながら私はそのような意味を持つ語句を見つけられません。歴史学者は鎌倉幕府の何たるかを説明するにあたり幕府組織を図式化し、微に入り、細に入り紹介します。そして個々の政策は誰が担当し、どのように決定されるのかという手順を明らかにします。それは素晴らしいことです。

けれども頼朝や秀吉の中世王の政治形態そのものについては特に語ってはいません。専制政治や独裁政治や民主政治という語句はありますが中世の政治を表す言葉がない。専制政治は古代の政治をひとまとめにしたものであり、民主政治は現代の政治をひとまとめにしたものです、しかし鎌倉幕府の政治は詳細に語られても鎌倉時代から江戸時代末期までを貫く中世の政治をひとまとめにして表現する語句は見当たりません。ですから古代、中世そして現代へと連なる政治の変遷を一目で示すことができない。不便なことです。

とりあえず中世の政治を<主従政治>と呼んでおきましょう。というのは頼朝と領主たちの関係が主従関係だからです。その彼らが行う政治ですからそれは主従政治と呼ばれるでしょう。そうすると中世の政治がひとまとめとして理解され、そして政治形態の歴史的な変遷も俯瞰されます。それは古代の専制政治、中世の主従政治、そして現代の民主政治という変遷です。

そのことから中世の主従政治は言論の自由や人々の意思の表明において古代政治と現代政治との中間に位置するものと考えられますし、それ故その変遷は人類の英知や良心を表すものと考えられるでしょう。主従政治という言葉はこの論文においてこれからも使用します。中世の政治を理解する言葉として適していると思われますから。

尚、古代王に求められていた徳という漠然としたものは中世においても中世王の持つべきものとして引き続き求められた。封建領主たちは双務契約や分権制を編み出し、誠実さや責任感や忍耐といった新しい精神を身につけて政治を行っていましたがそれでも徳というものに拘束され続けた。

それは封建領主が古代王と同じく人治の支配者であり、法治の支配者になりきっていなかったからです。法治主義の確立した現代において支配者である職業政治家たちは最早、徳を求められていません。徳は現代化革命を契機として霧散したからです。現代化革命は人治を否定し、同時に徳のある政治を切り捨てた。徳のある政治は法の下の平等や自由を保証する政治に変わった。それは徳の漠然とした姿を明確にし、そして徳の持っていた古代統治のあいまいな要素や支配者にとって都合の良い要素を取り除いたものです。

地頭の設置

頼朝は1185年、守護、地頭を設置しました。下総の地を治めていた千葉氏は頼朝から下総の地頭にあらためて任命されます。いわば本領安堵というべきものです。千葉氏は下総の正式な統治者となった。千葉氏は領地(荘園や公領)を管理しその徴税を取り仕切る。その税率は千葉氏が自由に決める。そして荘園領主や国に謝礼や税を支払う。

千葉氏にとって嬉しいことは自分の権利を堂々と主張でき、近隣の武士団との反目や争いに終止符が打たれたことです。彼らは互いの行政権や警察権や徴税権を尊重し、それを侵すことはしなくなりました。そしてさらにうれしいことは平氏方の横暴な地方長官から解放されたことです。関東の地から地方長官のすべては追放された。関東は真に武家の国になりました。千葉氏は念願の目的を達成した。

頼朝は新恩給付について地頭職を利用した。頼朝は主従関係を結ぶ武士たちに地頭職の権利を与えた。頼朝は王朝から贈られた膨大な土地を持っていましたが、それは没落した平氏一族の領地や王朝から没収した土地であり、関東にだけではなく全国に及んでいた。頼朝(鎌倉幕府)の直轄地というべきものです。彼は武士たちをそれぞれの地の地頭に任命し派遣した。

地頭の仕事は荘園や公領の管理、そこで働く農民の管理そして徴税です。地頭になった武士は幸運です。関東の田舎から一旗揚げようとその地に乗り込みます。しかし関東や東北以外の地には王朝から地方官も派遣されていました。王朝は特に西国で今も一定の権力を握っていましたから各地で武家と王朝の二重の統治が行われた。

二重行政の時代は武士と農民はどちらか一方に所属する、あるいはどちらかの支配を受けている複雑な状況です。地頭と地方官の間に縄張り争いは当然、起こる。それでも結局のところ、地頭が地方官や荘園領主側の管理人をやり込めてその地を徐々に浸食していきます。<泣く子と地頭には勝てぬ>という言葉がありますがそれは当時の地頭の強面ぶりを表現するものです。

地頭職は初め、任免制でしたがやがて世襲制へと変わり、地頭はその地で有力な領主へと変身していきます。地頭は最早、平安時代の転勤を繰り返す地方長官とは違う。その地に根を張る。五年後、十年後もそこに住み、統治する。彼は小さな王国を手に入れた。

武士たちはこうして頼朝の保護の下、勢力を拡大しそして豊かになっていった。逆に荘園領主である皇族や貴族は次第に収入の道を断たれていく。鎌倉幕府は王朝に配慮し、地頭の専横を取り締まることもしていたのですが、武士たちの勢いは止むことはありませんでした。

鎌倉時代前期は双務契約の誕生の時期です。契約当事者たちは実に幸せでした。彼らはそれぞれの契約義務を誠実に果たし、互いに成長することができた。武士は幕府から土地や権力を与えられ、質素で不安定な生活から抜け出し豊かになった。幕府も武士たちの武力を背景にして、王朝と駆け引きをして武家の支配をゆるぎないものにした。

守護と地頭の設置に続き、武家政権は承久の変や元寇や南北朝の争乱などの大きな事件が起きるたびに王朝と統治体制について交渉し、時には恫喝し、時には戦闘を繰り広げ次々と国家権力を手中にしていった。武家は最早、関東のゲリラ集団ではない。王朝に肩を並べる日本の支配者になった。

古代王朝は武家政権を潰そうと時々、試みましたが逆に武士たちによって返り討ちに会っていました。もしも王朝軍が鎌倉軍を打倒していたとすると日本には中世は成立しなかったことになる。古代国が復活して双務契約も消滅する、そして王朝の地方官が地方を強力に支配したことでしょう。そして日本は現代にたどり着かず、法治国家にもならず、民主化もされなかった。しかし勿論、そんなことは起きませんでした。

尚、頼朝の武士に与えた報酬は土地や地頭職(権力)や守護職でした、しかし中世王の与える報酬は時代とともに変わりました。例えば信長は武士に土地の他に高級な茶器を、そして徳川家は土地の他に米そのものを与えた。与えるものはこうして変化しましたが双務契約におけるギブアンドテイクの原理は中世を通じて変わりませんでした。

増長した武士たち

鎌倉時代、武家は勢力を拡大し王朝に並び立った。モンゴル軍が日本を襲った時も武士たちは勇敢に戦いそれを退け日本の独立を守った。しかし武家は依然として古代王朝の下位にいるといわざるを得ません。というのは武家政権が王朝の荘園制度の上に成立していたからです。地頭は威張ってはみても所詮、荘園や公領の管理人にすぎない。彼は貴族に仕える役人と変わらない。ですから武家は少なくとも形式的には王朝や貴族の下働きをしていたといえます。

この王朝本位の体制を覆したものが室町幕府でした。室町幕府はこの荘園制度を全面的に破壊した。武家が武力と謀略で荘園を乗っ取ったからです。その結果、貴族は生存基盤を失い、王朝は崩壊した。そして武家が唯一の日本の支配者となった。

鎌倉時代、守護は地頭に比べ目立たない存在であり、その地の治安維持だけを担当していた。室町幕府はそんな守護に刈田狼藉や使節遵行などいくつかの重要な権限を与えた。それは地頭と地方官との領地紛争をなくすため、そして鎌倉末期から続く不穏な状況を鎮めるための強権でした。しかし貴族にとってそれは謀略にしか見えません。

守護はその国におけるすべての紛争に公的に介入できるようになり、そしてその紛争を裁いた幕府の判決をもとに敗者の土地を取り上げ、それを彼の裁量で処分することができた。彼は土地を自由に支配する立場に立った。

守護の持った権力は絶大なものでした。武士たちは次第に守護に仕えるようになる。守護の意向で土地が動くからです。強面の地頭すらも守護に仕えるようになる。地頭は税を収奪できても土地を合法的に支配することは認められていません。

そして決定的なことですが、地頭と紛争を繰り返していた王朝の地方官も守護に従わざるをえなくなる。それは地頭と地方官の争いの終結でした。その結果、守護は荘園を全面的に支配する。王朝も貴族も収入の道を断たれることになり、平安時代から長々と続いた荘園制度は崩壊した。王朝支配の終焉です。守護はその領国において完全な支配者となる。そして多数の従者を従える立場に立った守護は自然に世襲化していく。守護大名の誕生です。

古代王朝や貴族が数百年に渡り握り続けてきた既得権が守護大名の下に音を立てて流れ込んでいく。特に皇族や貴族の荘園が多く残っていた西国では武家の勢力は急速に強まる。この時、武家は主要な国家権力である立法権、行政権、司法権、軍事警察権、徴税権などを一手に握ったといえます。それは200年近く続いた二都の終焉でした。

守護大名はまるで独立国の王のように見える。そんな守護大名が日本のあちこちで誕生していた。日本は真に武家の支配する国になる。足利義満は<日本国王>を名乗りました。しかし当時の日本は日本史上、大きな転換期に差し掛かっていた。王朝1000年の歴史と武家政権200年の歴史が様々な矛盾を一斉に噴き上げていたからです。

例えば王朝と武家の200年に及ぶ対立は武家の勝利で終わり、王朝は幕府の管理下に置かれることになる。従って、幕府は日本の真の盟主としてこれまでとは異なる新しい国家体制を設計し、新しい制度や組織を整え、確立するはずでした。しかし室町幕府は時代の大変化に応えられなかった。古代王朝に代わる新しい統治法や統治思想や社会制度などを創造できず、そのため中央も地方も混迷を深めることになった。

一体、誰が荘園を引き継ぐのか、その引継ぎにどのような正当性があるのか、誰がそれを裏書きするのか、誰が税や税率をどのようにして決めるのか、武士たちのあれこれの要求にどのように応えていくのか、そして武士たちの際限のない欲望を誰がどのように抑え込むのか。

室町幕府にはこれらに応える政策も軍事力もなく、それを断行する盟主もいない。室町幕府は相変わらず旧弊の政策を続けるばかりでした。しかも幕府の決断や決定は最早、信頼に足るものではなく、それに従う者もいたがそれを無視する者も多くいた。何よりもそれは新しい時代に沿うものではなかった。

土地を支配し、分配する真の盟主は不在であり、従って土地の奪い合いが日本のあらゆるところで起きた。争乱は全国的なものとなり、戦国時代へと繋がっていく。結局、日本に法と秩序をもたらしたものは戦国の戦いの末、最終勝者となった秀吉であった。秀吉は本領安堵と新恩給付と平和令と太閤検地を断行した。室町幕府のできなかった新しい政治です。そして徳川家は秀吉の想いを継いでさらに統治を徹底していく。

武家の相続問題もまた武家政権200年の歳月を経て現れてきた矛盾です。相続問題は全国各地で起こっていた。地頭になった武士は世襲を繰り返し、その地を支配する大領主になっていた。当初、広大な地域を治めていましたが領主一族がその地の相続を二度、三度と重ねていくうちに問題が起きてきました。土地は複数の子供に分け与えられ、さらに多くの孫に分け与えられていきますと一人の領地は猫の額ほどの狭いものになりました。分割相続の弊害です。最早、それは領地とは言えません。

国内では大きな戦がなくなり敵の土地を奪い取り、領地を拡大することはできません。ですから武士の所領は増えない。それにもかかわらず分割相続を続ければ当然、領主の土地は武士の土地と変わらないほど小さなものになる。分割をこれ以上続けるわけにいきません。その結果、分割相続は廃止され単独相続が始まった。一人だけが親の全財産と全権力を継ぐことになる。そして問題は誰がその一人となるかです。自然なことですが兄弟間の争いや親族間の争いが多発する。

将軍家も守護大名家も多くの武家家族も度々相続問題に巻き込まれた。そしてそれは無数の権力闘争を引き起こし、中央も地方も治安は大いに乱れた。応仁の乱はその一例です。将軍家自身、相続問題を引き起こし幾人かの守護大名を巻き込んで争乱を引き起こした。それは幕府の自滅を速めるものでした。

相続問題は武家支配の確立のため避けて通ることのできないものです。幸か不幸か室町時代はその確立のたたき台となった。そして大混乱を経て単独相続が武家の相続の基本となった。但しどの一人が相続するのかということはもう一つの難題でした。それは時代によって変わった。実力主義の戦国時代は武力と賢さに秀でた子供が後を継ぎ、一方平和な江戸時代は長子がそのまま相続した。それは大まかな規則として定着していった。

さらに室町時代は王朝1000年の歴史の作り出したモンスターによって振り回された。それは傍若無人な宗教勢力です。幕府は寺社の政治への介入に悩みその体力を消耗した。当時の寺社は権力者の一面を持っていて、幕府や守護大名の政治にしばしば介入した。

日本に限ったことではありませんが古代の統治者は宗教を利用し政治を行った。宗教を大切に扱い、その影響力を国内統治に利用し秩序の形成を目論んだ。武家も王朝に倣い寺社を大切に扱った。政治が宗教を利用したことはその後、宗教の増長を招き、政治が逆に宗教によって支配されることになる。寺社の立場は無敵で、その勢力は拡大し続けた。

寺社は第一期の開発領主として広大な荘園を開発し、皇族や貴族に並ぶ大荘園領主でした。そして信仰に篤く、死後の平安を願う皇族、貴族、武士、そして裕福な商人や農民は寺社に多くの土地をすすんで寄進した。また第二期の開発領主である下級貴族や有力農民たちは土地所有の権利獲得と免税を求めて不輸不入の権利を持つ寺社に土地を積極的に寄進した。そのため寺社は実に広大な領地を所有することになった。寺はその土地を維持するため僧兵という武力まで備えるようになる。

その結果、寺社は信仰と経済力と武力と三つを併せ持ち、それはまるで大名領国のようであった。特に大寺社と大寺社との反目や紛争は室町幕府にとって悩みの種でした。どちらか一方に味方すれば他方から責められる。さらに寺社は大勢の信徒を引き連れて自分たちの利権を守るため幕府に強訴し政治に介入した。

こうした宗教優位の立場は戦国時代において消滅する。戦国武将は宗教の政治介入を許さなかった。日々、戦を繰り返していた武将たちは現実主義者となっていた。そこでは武力がすべてを決める、戦略、戦術、武器、武具、馬、兵士、情報などなどが雌雄を決する。戦国の武士たちは寺社にお祈りするだけの平安貴族とは違う。目の前の敵を倒すのは自分であり、信仰のおかげではない。戦を始めるのも人間であれば、平和を築くのも人間である。現実主義は出口の見えない戦乱の中から絞り出された生々しい思想であった。

戦国武将は人間自身に対するゆるぎない自信を持つ。その中でも信長は特別でした。彼の比叡山延暦寺の焼き討ちは有名です。信長は自分の死後のことをあれこれ思いめぐらす人物ではなかった。彼は現実主義者であり、武力だけを信じる。彼の武士たちは寺院内にいた僧侶、僧兵、学僧、上人、女、子供に至るまで3000人を皆殺しにした、といわれている。

信長をはじめ戦国武将たちによる殺戮は宗教の政治介入を断つきっかけになった。それは宗教改革ではない。現実主義の精神が個人の信仰と宗教の影響力を明確に峻別した。日本において宗教を政治から切り離す政教分離は実に強引であった。

天下統一を果たした秀吉も平和令を寺社に対して発布し、僧兵たちの武力行使を禁じた。江戸幕府はさらに寺院諸法度を整え、寺の影響力をきつく抑え込んだ。その結果、宗教はその影響力を失い、幕府と争うことも信徒たちを動員することもなくなった。政治は宗教から分離、自立した。

一方、信仰の自由は明治憲法の制定において確定した。それまではキリスト教などへの信仰は江戸幕府によって認められていなかったからです。明治憲法はこの時、職業選択、居住、結社などの自由と共に信教の自由を国民に保障した。これにより日本の政教分離は両面において確立したといえます。

中世西欧もまた宗教の存在は大きかった。古代ローマ帝国以来、キリスト教は西欧人の宗教となり、人々の生活に深く浸透していた。領主たちも熱心な信仰者であった。それでも中世の西欧人は現実主義者となり、信仰と政治を徐々に切り離していく。国王たちは数百年をかけて辛抱強く段階的に政教分離を果たしていった。

ルターの宗教改革の運動、ウエストファリア条約、国王と枢機卿との権力闘争、国王のローマ教皇からの独立宣言、啓蒙思想、そしてフランス革命などを経て宗教の影響力を徐々に削いでいき、又信仰の自由をもほぼ認めるようになっていった。(ウエストファリア条約については後で詳述します。)

一方、ロシア、中国、中東諸国、インド、トルコなどは今も政教分離は確立されておらず、政治と宗教との紛争に悩んでいる。宗教が政治に介入することもあれば、逆に政治が宗教に介入することもある。例えばイスラムの多くの国々ではイスラム教の教義が憲法よりも優先される、政治も国民の選ぶ政治家よりも有力宗教人によって左右される。法の支配や国民主権はとても危うい。民主政治を支える基盤は脆弱です。

トルコは過去1世紀以上に渡り政治が宗教(イスラム教)の衣を着たり、脱いだりを繰り返し、国家の基本方針が定まりません。そしてその都度、国内が二分され、内紛が引き起こされる。人々が真に宗教から自立していないためです。あるいは中国共産党のように宗教の影響力を恐れて言論の自由に加え信仰の自由をも人々から奪う。こうした国は全体主義で覆われる。インドでは異なる宗派間で対立や流血の騒ぎが今も起きている。

信仰は大切です。人々が信仰を持つことは自由です。しかし人々は宗教に支配されてはいけない。人々はそして政治は宗教から自立していなければいけません。中世を経験し現実主義を身につけた人々は、宗教から自立して宗教から解放されている。いわゆる先進国の人々です。一方中世を経験せず、現実主義に疎い人々は宗教から自立できていない、宗教に呪縛されている。彼らは発展途上国の人々です。

さて室町時代に起きている問題の数々は個人、個別の問題というよりも時代の問題であった。ですから本来なら幕府は激変する時代に合わせて統治意識や統治方法を根本的に変えなければいけなかった。しかし幕府はこれらの変化を読み切る頭脳もなければ問題を解決する力もなかった。むしろいたずらに自ら混乱を引き起こしあるいは周りの争いに巻き込まれていった。

幕府は武士たちを統制できず、彼らの土地の本領安堵もできず、宗教の暴力になすすべもなく、そして相続問題を自ら引き起こす。幕府は室町時代中期を過ぎるころ日本全体はおろか近畿地方を統治する力もなくしていた。日本は無法地帯でした。結局、これらの積み重なった問題を解決する者は戦国大名であり、そして秀吉や家康であった。

武士たちは増長した。荒々しい武士が武力だけではなく大きな権力をも握った。気違いに刃物といわれますが、武力と権力を併せ持つ者は実に危険です。今や武士たちは仲間割れを起こし、武士同士が土地を巡り激しく争っていた。国家権力は全国各地に、そして無数の武士たちに分散され、収拾のつきようもない。

この不安と混乱の中で古代王朝の権威ばかりではなく武家政権の権威も地に落ちた。既存の社会制度や組織そして文物や慣習が次々と否定され、廃止された。その頃、時代を巧みに言い当てた言葉として下剋上という呼び方が流行った。従うべき法も権威も消えた世界で人々は武力主義、実力主義そして現実主義を身につけていく。

武士を調教する

室町時代は領国という大きな自治体が形成され、成立していった時期でもありました。それは守護大名の支配する大名領国のことです。これは歴史上の大事件でありました、それは古代の没落を決定的なものにし、中世を本格的に確立させるものでした、つまり12世紀から始まっていた中世化革命の終結点でした。

大名領国の前身は知行国といわれていた国です。知行国制は平安時代から続く古代王朝の地方統治の制度です。国内には例えば越後の国というように多くの知行国が存在していましたが、その国を統治する者は時代によって変化しました。彼らは知行国主と呼ばれ任期4年の地方長官、あるいは有力貴族、寺社、平家一族などです、そして知行権という名の統治権を持ち統治実務、治安維持、徴税などを行っていた。基本的に彼らは古代王の代理人であり、その土地は国のものであり、彼らの所有物ではなかった。

しかも室町時代、知行国は穴の開いた、虫食い状態のありさまでした。というのは知行国内には様々な領地(荘園や公領)が点々として存在し、それらは不輸不入の権利を備えており地頭、荘官、有力武士、有力商人、寺社などによってそれぞれ勝手に管理、経営されていました。その点、知行国は一元的に支配されていません。

14世紀、時代は激しく揺れ動いた。12世紀に始まった中世化革命はあと一歩で本格的に確立するはずでした。荘園制度の破壊とそれに続く大名領国の成立、つまり古代が中世へと移行する最終的な段階に差し掛かっていた。大権を得た守護が荘園を乗っ取り、荘園の管理人たちを制圧し、その国全体を勢力下におきます。彼は全権を握った。その時、知行国は崩壊し、そして新しく領国というものに生まれ変わった。それが大名領国です。荘園も荘園領主も荘園管理人もそして知行国主も消滅し結局、そこに残ったものは彼の支配する広大な土地と武士と農民でした。古代王朝はここに完全に滅亡した。王朝は平安後期から徐々に弱体化してきましたがとうとう息の根は止まった。武家の完全勝利でした。

この時、農民たちは荘園制から解放され自立した。そして農民は日本史上、初めて封建領主(守護大名)と直接、そして対等に向き合うことになる。封建領主は荘園領主とは違っていた。封建領主は中世人であり、有力武士ばかりではなく農民たち(村落)とも双務契約を交わし始めた。特に戦国時代、戦国大名と農民との契約は全国的なものになる。

守護大名は分国法を布いて一国支配を完成した。日本国内はそんな大名領国であふれた。それは分権体制が成立した状態であり、中世らしい中世の姿です。しかし残念なことに当時、武家の盟主は存在しないも同然でした。前述しましたが、室町時代の将軍は頼りにならず、盟主として力量不足であり、本領安堵も新恩給付もままならなかった。そのため土地を奪い合う闘争は全国規模で頻発し、分権制はむしろ分裂体制というものでした。

結局、本格的な分権体制は戦国時代を通過し、秀吉の天下統一を待たねばならなかった。戦後、全国は秀吉の本領安堵や新恩給付によっていくつもの大名領国として整然と分割された。そして双務契約の網の目は全国を覆い、秀吉から大名、武士、そして農民までもが契約に加入し、それぞれの契約義務を誠実に履行し安全をしっかり確保した。ここに武士だけではなく農民をも含む中世人のすべてが参加する秩序ある中世社会が構築されたといえます。頼朝が関東国において武士団と双務契約を結び、そして分権制を布いた時から約4世紀を経ていました。

この安全な社会は多様な産業や文化を育てていった。日本中世は盛期を迎える。特に江戸時代において幕府のある江戸だけではなく各地の大名領国においても独自の、特色ある産業や文化が生まれていった。そして大名たちは平穏で安定した領国統治を競い合った。こうした状態は2世紀以上も続き、各領国に富や有為な人材を蓄積していきました。それは実に分権制の賜物です。この地方自治はやがて訪れる明治維新を成功に導く原動力となりました。

秀吉の時代こそ分権制と双務契約の二つが国内に、そしてすべての中世人に行き渡り中世の時代基盤が確立した時代であった。頼朝が関東国において始めた中世が秀吉によって完成され、そして家康によってさらに充実したものになった。あるいは室町時代において弱体化し、戦国時代に一時、消滅した分権制がここに見事に復活したともいえます。

室町幕府が制御できなかった国家権力はようやく秀吉によって一つに束ねられた。秀吉の統治目標は平和の樹立です。日本から戦を無くすことです。新しい法を制定し秩序を形成することです。それは衰弱し、機能不全となった武家支配を再生し新たに確立することでした。この目標は家康にも引き継がれた。秀吉と家康の平和と秩序を求める統治が世界にも稀な270年の長き、平穏な江戸時代をもたらしたといえます。

そして秀吉は武家の盟主として改めて国家権力を大名たちに分配した。それは秀吉を頂点とする新秩序の構築でした。秀吉は伊達家に仙台の地を安堵し、前田家に加賀の地を、毛利家に中国地方を、そして島津家に薩摩の地を安堵した。大名たちは独自の立法権、行政権、司法権、警察権、徴税権を持ち、それぞれの領民を統治した。先ず、頼朝以来の分権制が全国に布かれた。

領地を与えられた領主たちは秀吉と契約する。彼らは秀吉に敵対せず、秀吉有事の際には秀吉のために戦う。戦役義務をしっかり果たし秀吉を保護する。相互補完の双務契約が改めて確かめられた。

同時に、秀吉は大名たちに平和令を発布した。それは戦を無くすため大名たちに向けた武装解除の命令です。大名たちの紛争の多くは領土問題ですが、秀吉は彼らに領土問題を武力で解決すべきではない、話し合いを持ち訴訟を通じて解決すべきと命令した。それはいわば大名に対する刀狩です。大名たちの武力闘争をすべてなくそうとする政策です。この命令に背いたものは彼の率いる大軍によって滅ぼされた。

この武力行使の禁止は大名だけではなく、武士にも農民にもそして寺社に対しても徹底して行われた。例えば江戸初期、忠臣蔵事件が起きた。武家同士の有名な争いです。幕府は事件を起こした47人の武士を許しませんでした。問題を武力で解決しようとしたからです。それでも忠義の者ということで打ち首の刑を受けるところかろうじて減刑され、切腹を許された。幕府のこのブレのない裁定は武士や農民や町人に深い印象を与えた。例え忠義に生きたとしても武力の行使は死罪に当たる。この事件以来、江戸時代末期まで大きな武力闘争は現れなかった。

大名たちへの牽制はさらに続きます。江戸幕府は大名たちをグループ分けした。格付です。徳川家とのこれまでの関係をもとにして大名たちを三つに分けた。親藩、譜代、外様です。言わば大名たちの胸に名札をつけるようなもので武家社会における大名個々の立場や役割を明確にした。勝手な行動を許さない、武家組織の骨組みが確定された。

さらに江戸幕府の採った政策は大名の自由な行動を極力制限することでした。反幕闘争を含めたあらゆる紛争が起こることのないよう彼らを牽制し、その動きを規制した。例えば大名の婚姻は幕府の許可を得たうえで行うこと、築城の禁止、大名の妻子は人質として江戸に住むこと、海外渡航や貿易を行う大きな船の建造を禁じること、などです。そしてそれらの命令を破った大名は減封やお家断絶などの罰を受けた。大名たちが欲望のままに行動しないよう、他国や王朝に介入しないよう、そして軍事力や経済力をつけることのないように画策した。

尚、江戸時代には国替えが時々、行われました。それもまた大名たちをある程度牽制したかもしれませんが、それはまた別の意味を持っていた。徳川家は国替えを大名たちに命じ大名を強制的に引っ越しさせた。大名は本領から引き抜かれて他国に移動させられる。感傷的に言えば国替えは大名たちにとって先祖から受け継いだ土地を離れることであり辛いものであったことといえるでしょう。

国替えの原因は三つあります。一つは新恩給付です。徳川家は関ヶ原の合戦で味方に付いた大名に土地を与えた。それはより広い土地、より江戸に近い土地、あるいは戦略上の要所です。江戸を徳川家に味方する大名で取り囲む、そして全国支配を万全にする。代わりに関ヶ原の戦いで徳川家に敵対した大名を東北や四国や九州に移動させた。

この国替えは戦功を上げた者への当然の報酬であり、そして敵対した者への懲罰でした。それは鎌倉時代から続く武家の習いです。誇りをもってこれまでの領地を離れた大名もいたことでしょうし、逆に唇をかみしめながら九州の地へと移動した者もいたことでしょう。戦に伴ういつもの光景です。

二つ目の国替えも新恩給付に近いものです。平和な時代、徳川家に尽くす大名といえば例えば江戸幕府の要職に就いて行政や財政を担当する者です。徳川家はそんな大名が江戸から遠いところに住んでいるようものなら江戸の近くで環境の良いところを選んで土地を与えた。出勤に便利ですし、仕事もはかどるでしょう。恐らく大名は喜んで引っ越しした。

三つ目の国替えは懲罰です。徳川家は武家の規則(武家諸法度)を破った大名を処罰した。城を新しく築いた大名や相続問題で混乱を招き、領国経営をおろそかにする大名家を罰した。より小さな土地、より江戸から遠い土地へ移動させた。あるいは減封や大名家の取りつぶしの場合もあった。

懲罰は武家社会に限らずどの社会にも存在する一般的なものですが、江戸時代の初期、特に開いたばかりの江戸幕府の権威を示すため徳川家は武家組織の規則を破る大名に厳罰で臨んだ。それは頼朝が鎌倉幕府を開いた時、幕府の方針に逆らう者を容赦なく討ち取ったことと同じです。

以上三つの国替えは武家の棟梁として家康や徳川家の当主が当然なすべき事柄でした。それは武家社会の新恩給付という基本中の基本を実施することであり、そして法の順守を促し、武家社会の新秩序を確立するためのものでした。いわば武家の内輪の出来事です。従って国替えは武家を締め上げることを目的としたものではありません。徳川家の専横でもない。まして大名たちの卑屈さを表すものでもない。武家にとって当たり前の作業が行われたにすぎません。

しかも国替えの原因ははっきりしている。徳川家も国替えされた大名もそしてそれを眺める第三者の大名も納得ずくの話です。ですから国替えが大名たちをきつく縛り上げるためのものとは言えません。国替えで喜んだ大名も多数いたことでしょう。一方、遠地に追いやられて、悲しんだ大名にしてもそこには明白な理由があり、それを徳川家の専横だといって徳川家を非難することはできなかったことでしょう。

国替えは古代王の断行する問答無用の一方的な処置とは違うものです。万一、わけのわからない、道理の適わない国替えであったなら間違いなくその大名は徳川家に牙をむいたことでしょう。

ですから国替えはともかく、秀吉や家康の大名や武士に対する数々の厳しい政策は極めて有効的であり、徳川の長い平和をもたらしました。武力と権力の両方を握ったいかなる人間もこのような厳しい統制下に置かなければ私闘は生まれ、紛争は多発し、無政府状態が生まれることでしょう。戦国時代には二度と戻りたくない、秀吉や家康だけではなく恐らく大名たちもそう願っていたことでしょう。ですから秀吉や家康からきつい命令が出てもそれに従ったのです。

頼朝や尊氏はこうした厳格で執拗な武家の統制など思いもつかなかったかもしれません。武士たちを拘束するよりもむしろ強く育て上げることに重点が置かれた。いうまでもなく王朝は常に武家の前に立ちふさがる存在であり、緊張感を強いられていたからです。ですから彼らは武士たちに土地や権力を与え続け、結果的に彼らをモンスターに仕立て上げ、そして日本を統制の効かない、無法の地へと追いやった。

一方、秀吉や家康はその怪物を取り締まる側に移った。彼らは武士に対し、冷淡で、警戒的でした。武士を甘やかすことなど考えられなかった。王朝はすでに見る影もなく、武家は王朝と対立するより王朝を保護する立場に代わっていたからです。そして二人は武士たちが権力を乱用しないよう、平和が維持されるよう様々な命令を彼らに向けて発した。そしてその結果、武家の主従関係は親和的なものから冷淡なものに変化しました。主の立場が強化され、従者は全面的に主に恭順の意を示し、そして武家の規則を遵守するようになった。彼らの推し進めた政策が270年の平和を作り出したことに疑問の余地はありません。

頼朝から始まった武家の統制はこうして全国規模、全国民への統制へと変化し、拡大していった。そして時代を経るごとにその内容はより組織化され、高度化された。それは江戸幕府の成立で一応の完成型を見たといえるでしょう。その時が日本中世の盛期でした。

それでも、重要なことですが江戸幕府は大名たちを厳しく牽制する一方、大名たちの自治を明確に認めていたという事実です。幕府は大名たちに本領安堵し、独自の行政権や裁判権や徴税権などを認めていた。徳川家は国家権力を独り占めしようと画策せず、大名たちの権力を剥ぎ取ろうとせず、そのために大名たちと権力闘争を起こすこともなかった。現実、国家権力は徳川家を含む大名たちに整然として分権されていた。頼朝以来の分権制は間違いなく継続されていて、中央集権制はみじんもなかった。

その結果、大名領国は200年以上にわたり大名と領民たちによって自主的に運営され、特色ある風習や特産品や方言を生み出していった。江戸時代、日本は200以上の大名領国に分かれていました。例えば領国ごとに独自の城や祭りや酒が造られ、従って全国では200あるいはそれ以上の城や祭りや酒の種類が生まれていた。そしてそれらは特性を保ったまま今日まで生き延びています。ですから日本や西欧のように中世の分権制を数世紀に渡り経験した国は豊かで多様性のある伝統と文化を育んだ。

一方、中世を通過しない国には分権制は布かれなかった。古代国には素朴な中央集権制が布かれていて、地方は中央の管理下に置かれ自治は禁じられていた。従って地方には独自の風習や産業や文化は育ちません。中央には一点豪華な古代王の王宮や宗教建築物が存在していますが、国全体は寂しいモノクロの世界です。

秀吉も家康も古代王ではなく、あくまでも中世王であった。この基本的事実が忘れられますと江戸時代が大きく誤解される場合があります。例えばそれは秀吉や家康を専制君主として誤解する、そして江戸時代は分権制ではなく中央集権制が布かれていた、というとんでもない過ちです。江戸時代は古代王のような専制君主が支配する近世と錯覚される。残念ながらこのような誤解は歴史学者によって生み出されて今日、広く流布されています。

例外的な中央集権制

江戸時代、例外的に中央集権体制が用いられたことがあります。一つは富士山の大噴火の時、もう一つは朝鮮から使節団が来日した時です。1707年、富士山が大噴火して関東地方は厚い火山灰に覆われた。小田原は特にひどかった。農作物に被害が出ただけではなく、火山灰が厚く積もり田畑が使い物にならなくなった。復興事業のために膨大な資金が必要とされたが小田原藩も幕府もそれに応えられなかった。そのため幕府は全国の大名諸国に復興税を課税した。

徴税権は本来、それぞれの領国固有のものであり、それを侵すことは誰にもできません。それがたとえ幕府であっても、です。それが分権制です。しかしこの時、一時的とはいえ分権制は廃止された。大名たちはこの要請を断ろうと思えば断ることもできた。それは小田原の話であり、自分とはかかわりのないこと。けれども大名たちはこの要請に応えて幕府に一斉に復興税を納めた。

朝鮮の使節団は江戸時代12回、来日しました。使節が訪れる度、幕府は大名たちに課税してその接待費を賄った。この時も大名たちは幕府の要請に従い、納税した。この二例の納税はいずれも税制の中央集権化であり、全国の税が幕府に集中した。

この二例はあくまでも例外でした。平時においてこうした税の一元管理はあり得ない。税制の集中化は明治時代からです。江戸時代、富士山大噴火や外国との交流という特別なことに限り納税の中央集権化は例外的に認められたといえます。もし平時に徴税権の侵犯があれば大名たちは当然、それを問題にします。彼らは彼らの既得権を死守するでしょう。彼らは連合して幕府に抗議し、王朝を味方につけ討幕を画策するかもしれません。体制の変革は革命に発展するでしょう。

誤解する歴史学者

歴史学者が誤解していることがあります。それは秀吉の時代から日本は近世に移った、中世は室町時代で終わったとする解釈です。秀吉の時代から、あるいは江戸時代から日本は中央集権の支配体制に変わった、だから日本は中世から脱して近世という時代へ移行したという説です。江戸時代は中世ではなく近世であるという考え方は今、日本で一般的であり子供たちの歴史の教科書や図書館に並ぶ百科事典にそう載っています。

歴史学者が江戸時代を近世と規定した理由は何なのでしょうか、何故江戸時代は中世ではないというのでしょう。果たしてその考えは正しいのでしょうか。何故、歴史学者は江戸時代が分権制ではなく中央集権制の布かれていた時代と決めつけるのでしょう、そして何故、江戸時代は専制政治が行われて主従政治が消えていたと考えるのでしょう。それは表面的であり印象的なものの見方のように思えます。

先ず、江戸時代の国家体制ですがそれは明らかに分権制です。この点、歴史学者は大きな誤りを犯している。家康は頼朝と同じく分権体制を布いた。中央集権制を採用していません。日本において中央集権制が布かれるのは明治時代からです。薩摩や長州を中心とする下級武士たちが200以上の藩に分かれていた国家権力を中央に集め、一つにした。廃藩置県です。江戸時代において権力(徴税権)の集中化が行われたのは前述の富士大噴火の時などの極めて例外的な時でした。

家康は征服者ではない、古代王ではありません。家康は彼に味方し、共に戦った戦国大名や彼の軍門に下った戦国大名にそれぞれ領地を与えた。そして彼らの領国自治を尊重し、行政権、司法権、徴税権などの行使を認めた。家康の直接統治するところは関東地方を中心とする彼固有の領地(直轄地)に限られ、彼は頼朝と同じく大名たちの領国に介入することはしませんでした。ここのどこに中央集権制があるというのでしょう。家康と頼朝の国家統治の間には何の相違もありません。江戸時代は分権制という中世の国家体制が布かれていた時代です。

鎌倉時代も江戸時代も同じ中世であり分権制が布かれています。そしてこの鎌倉と江戸の二つの統治の違いは何かといえばそれは統治の規模と統治の密度の違いでしょう。つまり12世紀の頼朝の関東国の素朴な統治と16世紀の徳川の日本全国に及ぶ高度な統治という、規模と密度の違いです。関東国の荘園の管理人に対する統治と全国の大名に対する統治とが同じものであるはずがありません。

こうした規模や密度の違いは中世統治の経過を示すものであり、あくまでも分権統治の発展の問題でしかない。小規模で素朴な統治が大規模で高度な統治へと発展した。しかしそれは中世を否定するものではありません。両者は一つのものとしてつながっています。ですから鎌倉時代や室町時代が中世であり、一方江戸時代は中世から離脱した近世という時代であるという説は通用しません。江戸時代は紛れもなく鎌倉時代と同じく中世に属しています。

中央集権とは分権制の反対の国家体制です。税制、行政、警察、司法などのすべての国家権力が一点に集中化される。日本における体制の変革は明治維新で断行され、そしてフランスにおいてはフランス革命で行われた。共に中世の分権体制が廃止され、そして現代の中央集権制が導入された大事件でした。総称して現代化革命と呼ばれるこの大事業では多くの人々の血が流れ、人々の立場や権益が大きく変動した。時代が根底からひっくりかえりました。

日本においてこの変革で消滅した人々は徳川や大名たち、すなわち頼朝の時代から続く封建領主の面々です。そして廃止された国家体制も頼朝以来の分権制でした。同時に頼朝以来の主従政治も消えて、国民による民主政治へと切り替わった。すなわちここで否定され廃止されたものはすべて中世です。中世の支配者、中世の国家体制、中世の政治が一掃された。明治維新は中世の没落であり、現代の誕生でした。ここに近世と呼ばれる時代の入り込む余地は全くありません。

家康は現代化革命を引き起こしたのではない。大名たちも秀吉や家康に対してクーデターを起こしたのでもない。彼らの時代に国家体制の変革は存在しません。それは270年後の15代将軍、慶喜の時代に起こった。明治維新です。家康の時代には国家体制をめぐる闘争は起きなかった。家康は秀吉とともに頼朝以来の分権制を見事に復活したのです。

しかし歴史学者は秀吉や家康を専制君主と誤解した。秀吉や家康は天下を統一し、今や絶対者となった、それは専制君主である、と。そしてすべての大名たちは二人にかしずく服従者のような存在である、と。歴史学者は二人を古代王のようにとらえています。そして中世の天下統一を古代の天下征服と取り違えた。ですから歴史学者は時代の変革が起きたに違いないと考え江戸時代は最早、中世ではないと早合点した。大名たちは権力を剥奪され矮小化され、従って日本は徳川を頂点とする中央集権制の国家になったに違いない、と決めつけた。つまり江戸時代は中世とは異なる近世といわれる時代に突入したと結論つけた。

歴史学者は客観性を欠いています。特定の人、特定の事件に集中し、興奮し、歴史の基本を軽視しているように見えます。歴史学者は中世という時代を、そして近世という時代をどのように定義しているのでしょう。国家権力に関わる国家体制というものを無視して歴史の区分はできるものでしょうか。それは決してできません。歴史学者は大名たちの自治権の存在や徳川による自治権の承認を認めないというのでしょうか。歴史学者は江戸時代に分権制はすでに消滅していたと主張しますが、それでは明治維新で行われた廃藩置県とは何なのでしょう。それは江戸時代、変わることなく布かれていた分権制を廃止することではありませんか。

それでは歴史学者のもう一つの過ちについて述べてみましょう。それは徳川が専制政治を行っていたというものです。それも現実ではなく、幻にすぎません。歴史学者は徳川の武家諸法度の制定や国替えの強行の中に徳川の強権とそれ故の専制政治を見ているようです。しかし徳川は頼朝や秀吉と同じく主従政治を行っています。中世の政治です。

専制的であるとする武家諸法度の制定についてですが、それは武家の法です。北条の御成敗式目や秀吉の平和令と同じ中世の法であり、中世の盟主が国内の平和と秩序を求めるため、大名や武士の仕事や生活を律し、彼らの武力や謀略に歯止めをかけ混乱や争いを無くすためのものです。武家諸法度の内容は厳しいものと見えますが、それは鎌倉期の荘園の管理者に対する御成敗式目とは異なり、江戸時代の一国を支配する大名たちを統制するものだからです。前者は粗く、緩い法、一方後者は緻密で厳しいものとなっている。特に、徳川は戦国時代や関ヶ原の合戦を通過して大名たちの持つ権力の凄さを身をもって理解していた、だからこそ徳川は武家社会の中で最もきつい法を制定した。それは自然なことでした。

しかし法の厳しさと専制政治とは何の関係もない。こうした時代を巡る法の変遷は緩いか、きついものであるかと言う厳しさの程度を示すものであって、しかし命令の質の変化ではありません。あくまでも徳川の武家諸法度は泰時の御成敗式目の延長に存在するものです。ここのどこに徳川の専制支配があるというのでしょう。法が厳しいものだからそれは専制であるという単純極まる見解は否定されるべきです。しかも徳川は仲間の封建領主たち(大名たち)の助言を得て政治を行うという老中制度を整えていました。それは主従政治であり、独裁政治ではありません。

そしてこれらの厳しい命令や処罰はあくまでも公のものであり、徳川の私法ではなかった。つまり命令は大名だけを拘束するのではなく、徳川自身をも拘束する公平なものです。ですから法は徳川の領土を拡大することや徳川の権力を増大するための私法ではありません。徳川が大名たちの土地をむしり取るためのものでもなく、彼らの徴税権を侵すものでもない。武家諸法度は権力闘争の方便とは違います。

それは今日の古代国であるロシアや中国に見られる独裁者の利己的で勝手な私法とは全く違うものです。彼らはそれを人民の法である、あるいは国の憲法であるなどと称し国民を欺いています。しかしそれは紛れもなく独裁者の都合に基付く、自分勝手な命令の塊です。それでも歴史学者は徳川が古代王と同じ専制政治を行っていたと主張するのでしょうか。

次に徳川の行った国替えについてみてみましょう。歴史学者は徳川の強行した大名の国替えを問題視した、大名たちは徳川の命じた減封や改易といった生々しく、劇的で大掛かりな処罰に対し従順に従っている、彼らはすっかり牙を抜かれた、彼らはまるで徳川の地方長官のようだ、と錯覚したのでしょう。ですから徳川は専制君主である、とした。

しかしそれもまた印象判断としか思えません。国替えはあくまでも武家社会の内輪の問題です。それは武家社会が成立するための基本であり、武家の棟梁の仕事です。頼朝や北条や足利や秀吉が戦の度に行った武家の習いにすぎない。江戸時代は鎌倉時代や室町時代と異なり、大名は全国に多数存在していた、そのため国替えが増えそして複雑になった。さらに戦国時代や関ヶ原合戦において大名たちと激しく戦ってきた徳川が大名たちの持つ強力な戦力に厳しい目を注ぎ、国替えや改易を強行したこともごく自然なことでした。歴史学者はこの国替えの厳しさや数の多さに過剰に反応した、そして国替えと専制政治とを無理に結びつけた。実に強引であり、粗雑な行為です。

江戸時代は中世です。秀吉も家康も中世王であり、分権制を力強く復活させた。そして徳川は徳川独自の主従政治を実施した。徳川の統治は日本の中世統治の集大成といえるでしょう。江戸時代に中世の盛期が形成されたことは従って当然のことです。江戸時代は近世ではありません。そもそも歴史区分に近世という時代は理論的に存在しません。このことは次の章のフランス革命の記述の後に改めて説明します。

訴訟制の成立

江戸幕府は武力行使を禁止すると同時に訴訟制の確立に努めた。武士だけではなく農民や町人の訴訟にも尽力した。その結果、訴訟制度は中世社会に深く根付いていった。武士も農民も町人も武力を行使することなく、問題を話し合いで解決することに馴れた。訴訟制度の発達は徳川の長い平和をもたらした大きな原因です。

訴訟制の確立は中世社会に事実主義をもたらした。事実主義とは現実主義のことです。虚偽やごまかしを否定し、事実を尊重する態度です。裁判は証拠、証文、証人など事実の提出を通じて行われたため人々は事実の大切さを理解し、虚偽や捏造を非難するようになる。現実主義は武士だけではなく農民や町人も深く身につけていった。

一方、古代社会では事実主義は根付いていません。事実の大切さが十分に認識されていない。それは公正な裁判を経験してこなかったからです。王の専制政治の下で公正な裁判が行われることは難しい。権力や情実や宗教が法よりも優先するからです。司法の場で証拠や証文や証人は決定的なものではなく、事実を争うという行為が成立しにくい。ですから人々は法よりも武力や権力やお金や情実に依存する。その結果、古代人は事実と虚偽の違いに対して鈍感となる。嘘をつくことにさほどの抵抗がありません。

しかし、江戸時代の訴訟制度には問題がありました。武力行使は減り、訴訟制はそれなりに成立していましたが身分制の存在する中世社会で法は理想的に機能していなかった。武士は明らかに人々の上に立っていて、法は武士に有利に働いていたからです。さらに中世は分権制の時代ですから領国ごとに法はあり、そして村ごとに法があった。

従って日本が真の法治国家となるためには明治維新を通過することが必要でした。明治維新は分権制を改め、中央集権制を布いた、そして身分制を廃止し、封建領主の代わりに新しい支配者として憲法を制定した。その結果、それまで国内に散在していた多種多様な法が一元化され、人々は法の下、平等になった。欠陥のある法治は完璧な法治へと改良された。

Chapter 04
中世から現代へ

フランス革命

体制の変革は実際、18世紀の中世フランスで起きました。それはフランス革命です。その結果、中世フランスは消滅し、現代フランスが誕生した。革命は中央集権制と分権制との国家体制の激しいぶつかり合いです。革命のそもそもの出発点はルイ16世と領主たちとの税を巡る対立でした。

18世紀、中世フランスは近隣の国々と戦争を繰り広げていて、その戦費の膨大さゆえに国庫が空になっていた。戦を継続し、国家を存続させるには軍資金が必要です。王は農民に重税を課したがそれだけでは足りない。そこで王は双務契約に違反していると知りながら領主たちからも徴税しようとしたのです。しかし領主たちは猛反対し納税を拒否した。そのため両者は激しく対立を始めた。

中世フランスは10世紀から始まりました。フランス全土に分権制は布かれて多くの領主たちが林立し、国家権力を分け合っていた。そして王と領主の間に、そして領主と騎士の間に双務契約が結ばれていました。

14世紀の頃もフランスは近隣の国と戦争をしていた、そして戦費の調達に窮した王は軍事税という新税を考案しました。それは国防のためという大義名分を持った新税です。本来、分権統治であれば王は領主たちの持つ徴税権を侵さず、彼らの領民から税をとるようなことはしません。けれども今回は例外でした。その税の性質上、王は国民全員から軍事税を徴収しようと考えた。そして王は王領地内の領民からだけではなく領主たちの領民からも徴税した。

それは王が領主たちを飛び越えて彼らの領民と直接、結ぶことです。いつもの領主ならそれをとがめて王に抗議するはずです。領民は領主にのみ税を納めるものだからです。しかし領主は今回、それを許した。その税が国家的なものであったからです。領主たちは王に抗議せず、それに対し目をつぶり認めた。

ところが王は領民に軍事税を課しただけではなく、領主にも課税しようとした。それには領主たちは怒り、猛反対した。彼らは団結しそれは契約違反であると王を突き上げる。

それには理由があります。戦争が起これば領主たちは双務契約に従い、王を助け敵と戦う。それは彼らの双務契約に基付く戦役です。彼らは馬に乗り従者を引き連れ、食料や武器を携帯し戦場に赴く。それらの費用はすべて自分で負担している。それが中世の騎士の戦役です。

ですから戦役を負う領主はすでに多くを負担している。もし戦役に加え、多額の軍事税をも支払うようなものなら領主は破産しかねない。遠征費や食料費などの費用はどこから工面したらいいのか。もしそんなことになれば戦争に参加しようとしても参加できなくなる。それとも国の防衛には参加しなくともよいのか。戦役と軍事税と二つを負わされる道理はない、それが領主たちの言い分です。こうした王と領主たちの契約上の紛争は度々、起こったが、その都度、王は譲歩して領主からの徴税をあきらめた。こうして領主たちは王から免税権を得てきた。

領主と同様に免税権を得ていた者には聖職者や特権都市があります。それは領主と同じく、それぞれの理由があるからです。もしも領主や聖職者や都市が皆、王に軍事税を納めるようであれば国家の税収入は今までよりも4倍、5倍に跳ね上がる。そうなれば兵士をたくさん雇用でき、戦局を反転できる。ですから歴代の王は税や兵士の一極集中を心から願っていた。しかし中世フランスの分権制は岩のように固かった。

18世紀、ルイ16世はあきらめなかった。王は執拗に免税権の撤廃を画策した。その結果、王と領主たちの対立は泥沼にはまり、さらに物価高騰のため生活苦を強いられていたパリ市民、そして不作と重税に喘ぎ、長年の圧政に対する怒りに燃える全国の農民たちがこの争いに加わり、大騒動に発展し結局フランス革命へとなだれ込んでいった。

王の立場もある、そして領主の立場もある。国家体制の矛盾です。主従関係が親和的とか、冷たいとかそんな優雅な問題ではない。王の立場に立てばフランスという国家が存続するかどうかという国家存亡の問題であった。一方、領主の立場に立てば領主の財産が強奪されるかどうか、領主の存在理由が失われるかどうかの死活問題です。そして市民や農民にとっては明日のパンを手に入れられるかどうか、餓死寸前の切羽詰まった問題でした。

国家権力の分配の問題です。国家権力は分権であった方がよいのか、それとも集権とすべきか。その答えは時代背景や立場によって異なるでしょうが、今のフランスは国家としてどちらをとるべきかと決断を迫られていた。言わばフランスは中世の分権制を極限まで追い詰めた。これは中世フランスにのみ生じた歴史的な事象であり、それ故世界史の上で特筆されるべきことでした。

フランスに中央集権化が必要とされた理由は税制と軍制の一元化が急務であったからです。当時、西欧各国はすでに十分に大きく成長し、それぞれの国家としての立場と主張がはっきりと打ち出されていた。国家と国家との間には1ミリの隙間さえない。対外戦争と経済競争は当時の西欧で熾烈となり、すべての国家権力が一つに結集して一大勢力を形成しなければ他国と太刀打ちできない状況でした。

中央集権化は必然でした。フランス国内の兵士はそれぞれの領国の垣根を超えて一つにまとまり、強力な国軍を形成する、そして国内の税も例外なくすべてが中央政府に集まり国家経営と対外戦争に用いられる。国家存続のことを考えれば分権体制は最早不要のもの、むしろ弊害であった。

フランス革命は歴史の段階的な発展を示す好例です。ルイ16世は衆人環視の中で処刑され、時を同じくしてフランスの領主たちは人々の攻撃を恐れて一斉に国外に亡命した。そしてフランスの人々は特権階級から解放された。彼らはフランスの主権者となる。国民主権の確立です。そして人々は憲法を制定し、憲法に従うことになる。憲法は現代の支配者です。それは人治から法治への大転換でした。歴史的な偉業です。同時にそれは人々が法の下、平等になる万民の平等の確立でもありました。

10世紀から18世紀まで続いた中世の制度や組織や思想は木っ端みじんに吹き飛んだ。人々は新しい国作りを始める。彼らは時代の要請に応えて中世フランスの分権制を廃止し、全国に中央集権体制を布いた。廃州置県は1789年に実施され中世の領国の垣根はすっかり取り払われ、そして新たに現代の行政区分が設けられた。立法、行政、司法のすべてが中央に一元化され、その後三権は分立された。

ルイ16世の想い描いた中央集権化構想は古代王の専制政治に回帰するものでしたが、フランス革命を断行した人々の中央集権化は国民自らが国家権力を掌握し民主政治を行うものでした。全国から税や兵は一か所に集められ、フランスの財政は豊かにそして軍事力は強大化した。その結果、フランスは周囲の国々と対等、あるいはそれ以上の力を持つようになる。

江戸時代は中世

時代基盤とは特別な時代要素の集合体です。それは国家の形を決めるための基本要素であり、支配者、国家体制、安全保障、政治、思想です。人類は歴史上、三つの国家の形を作り、それを支える三つの時代基盤を構築してきた。一つは古代国の時代基盤、一つは中世国の時代基盤、そして一つは現代国の時代基盤です。

古代国は古代の時代基盤を持つ。それは支配者が古代王、国家体制は素朴な中央集権制、安全保障は王に対する絶対服従、政治形態は専制政治です。但し、古代の思想についていえばそれは王が身につけるかもしれない徳の思想でしょうか。古代の人々は中世人や現代人と違って特別の思想を持っていません。というのは古代の人々は服従者であり、言論の自由や表現の自由に無縁だからです。日本史において奈良時代と平安時代はこの時代基盤の上に成立しています。

中世国は中世の時代基盤を持つ。それは支配者が封建領主、国家体制は分権制、安全保障は双務契約、そして政治形態は主従政治、そして思想は平等主義と現実主義です。鎌倉時代、室町、戦国、安土桃山、そして江戸時代はこの時代基盤の上に成立する。

そして現代国は現代の時代基盤を持つ。それは支配者が国民(そして国民が制定する憲法)、国家体制は中央集権制(と一定の地方分権)、安全保障は国家と国民との双務契約、政治形態は民主政治、そして思想は民主主義と自由主義です。明治時代、大正時代、昭和時代、平成時代はこの基盤の上に成立する。

三つの時代基盤はいわば歴史の定数といえます。それぞれの時代基盤は古代を表す定数、中世を表す定数、そして現代を表す定数です。歴史はこの三つによって古代、中世、現代と根本的に区分けされます。

270年間の江戸時代、分権体制は穏やかに維持されていた。江戸幕府は大名たちの自治を尊重し、侵すことはなかった。諸大名はそれぞれの問題を自分の領国内で処理してきた。それが可能であったのは中世フランスとは異なり、幕府は対外戦争を引き起こさず、対外戦争に巻き込まれず、それ故膨大な戦費の調達に苦しむことがなかったからです。

もし富士山が毎年のように大爆発していたら、あるいは外国軍が10年に一度日本に侵攻していたら徳川家の当主はルイ16世と同じ立場に立ったかもしれません。そして幕府は税や軍制の中央集権化を目論んだことでしょう。勿論、大名たちはそれに猛反発し、分権制を死守しようとする。二つの相反する統治体制の対立は内乱に、そして革命に発展したことでしょう。歴史は歴史です。状況や条件が変わればそれぞれ違う歴史が生まれます。

歴史学者は江戸時代、幕府の採った例外的な税対策をどのように判断するのでしょう。富士大噴火の時の税制は中央集権か、分権かそれとも第三の税体制か、いずれを指摘するでしょうか。それは明らかに中央集権制でした。一方江戸時代の平時は分権制が確実に貫かれていた。それでも歴史学者はなおも江戸時代を中央集権制の時代であったと強弁するのでしょうか。

さらに言えば江戸時代が中央集権制であると強弁するなら明治維新とは一体、何なのでしょう。というのは現代化革命とは分権体制を中央集権化する作業です。フランス革命も明治維新もそして中世ドイツの現代化もみな分権制を廃止し、中央集権体制を整えることでした。江戸時代、日本はすでに中央集権化されていたというのなら明治維新とは何だったのでしょう。大久保利通や木戸孝允は廃藩置県をする必要はなかったのではありませんか。歴史学者は藩が江戸時代すでに消滅して、中央集権化が果たされていたと主張しているのですから。

三つの歴史区分は固有の統治者、統治体制そして政治を持っています。古代は中央集権制の下、古代王の専制政治が行われ、中世は分権制の下、封建領主の主従政治が行われ、そして現代は中央集権制の下、職業政治家が民主政治を行っている。しかし歴史学者の主張する近世(江戸時代)という歴史区分には近世固有の統治者も固有の統治体制も固有の政治形態も存在しない。

江戸時代の支配者は封建領主、国家体制は分権制、政治形態は主従政治、そして安全保障は双務契約です。すべてが中世を指し示している。頼朝の支配も家康の支配も同じ中世王の分権統治です。そこにはなんの違いもない。あえてその違いを指摘するとすればその統治がより大規模なもの、より緻密なもの、そしてより強力なものになったという相対的、段階的な違いだけです。それは中世の経過を示すものであり、中世を否定するものではない。歴史学者の主張する近世とは根無し草のようなものであり実体を持たない。江戸時代は明らかに中世であり、あえて言えば中世の後半です。

ですから江戸時代は古代でもなく、現代でもなくそして近世でもない。そもそも近世というあいまいな歴史区分は不要です。歴史学者は歴史を人々に誤って教えている。子供たちの歴史の教科書に誤った中世像を描いていませんか。近世という歴史区分が麗々しく記述されていませんか。近世という区分を持ち込むことで歴史の理解は不正確になり、段階的な歴史の発展の姿がとてもぼやけてしまう。

近世不要論

それでは何故、近世という時代がひねり出されてしまったのかというそもそもの原因を説明してみます。西欧の歴史学者は歴史区分に関して二つの過ちを犯していた。一つは中世の始まりの時期、あるいは古代の終わりの時期を間違えた。そしてもう一つは現代の始まりの時期、あるいは中世の終わりの時期を間違えた。特に現代という時代が15世紀のイタリアルネッサンス期から始まったとする解釈は致命的な誤りであった。そもそもルネッサンス期に民主政治や議会制や資本主義が存在するはずもない。そこでは封建領主や騎士や聖職者が戦を繰り返していて紛れもなく中世でした。

一般的に西欧の中世は5世紀から15世紀までの1000年と考えられています。5世紀とは古代ローマ帝国が滅亡した世紀を指し、15世紀とはイタリアルネッサンスが始まった世紀を指す。その間の期間は暗黒の時代と呼ばれ、それが中世とされた。この中世の区分は教科書にも百科事典にも載っている常識です。しかしそれは誤りです。西欧の中世は10世紀から18世紀までです。

古代ローマ帝国の後に建国された国、フランク王国は古代国です。中世国ではありません。そこには封建領主もいませんし騎士もいません。ですから人々の双務契約も都市共同体も発生していない。そして国家体制は中央集権制であり、古代王が地方官や兵士を西欧各地に派遣してあるいは地方の有力者に請け負わせて専制的に人々を支配していた。フランク王国の衰退はまさにその広大な国土故に、中央集権制で支えきれなくなってしまったことが原因でした。

西欧の古代は古代ローマ帝国で終わったのではなくフランク王国の崩壊で終わったのです。しかし歴史学者は古代ギリシャと古代ローマが栄えた時代を理想化して夢を見た。ローマ帝国はあまりにも偉大であった。古代ギリシャは美しく、輝かしい。しかしそのすばらしさに比べるとフランク王国は暗い。宗教国家であり、人々は自主性に乏しく、抑圧された生き方を強いられ、何の進歩も感じられない。だからフランク王国は輝かしい古代国ではなく、暗い中世国であるとした。

まるで電気のon, offのような切り替えです。古代の輝かしさが基準となって歴史を区分している。その結果、軽率にも暗く見えるフランク王国は中世国として処理され、そのため西欧の中世はフランク王国と共に5世紀から始まったと結論つけられた。

しかしそれは誤りでした。もしそうであるならフランク王国とフランク王国に続くカペー王朝は共に中世に属することになる。しかしそれは理屈に合いません。フランク王国は古代の中央集権国家です。一方、カペー王朝の国家体制はフランスで初めて分権制となり、王は国家権力を多くの封建領主と分け合っていた。二つの国家体制は全く違う。

ここには歴史の大きな断層がある。フランク王国は中世国家の成立基盤を一切持っていません。古代国です。一方、カペー王朝から始まりブルボン王朝までのフランスの国家体制は一貫して分権制です。10世紀から18世紀までです。王家と封建領主や都市や聖職者は双務契約を交わし、それぞれの権利と義務を認め合っていた。

それは中世固有の分権国家です。そこには絶対権力を持つ王は存在しない。カペー家当主はフランスの盟主であるとともに封建領主たちの仲間の一人です。中世の時代基盤である封建領主、分権制、双務契約、主従政治は10世紀から18世紀までフランスの歴史を貫いています。それがフランスの中世時代です。

しかし歴史学者はこの時代基盤を一切、考慮することなくフランク王国(古代国)とカペー王朝(中世国)をひとくくりにして中世という時代に放り込んだ。そしてその中世はカペー王朝の崩壊で終わったと判断した。滅茶苦茶です。それは時代印象をもってする表面的な区分けであり、全く根本的なものではない。歴史学者は歴史を区分けする基準を文芸復興に求めた。ルネッサンスが時代を明るくし人間性の復活につながったからという、もっともらしい理由です。それが14世紀から15世紀頃であり、その頃カペー王朝が滅んだからというものでした。そしてこのイタリアルネッサンスの時期から現代が始まったとした。歴史学者のこの錯誤はもう一つの過ちに関連しています。

もう一つの過ちは現代の初めをイタリアルネッサンス期としたことです。歴史学者は15世紀のイタリアルネッサンス期から西欧の現代が始まったと判断した。その過ちはイタリアがその時、明るくなったからという単純な理由から生まれた。古代の輝かしい文化が復活した、古代ギリシャの彫刻や絵画が再現された、そして古代の優れた学問や科学思想が導入された。だから文芸復興と呼ばれたルネッサンス期は現代の出発点だと解釈され、暗い中世は終わり、そこから明るい現代は始まったと考えられた。

この歴史区分は感情的です。私としてもわからなくはありません。しかし学問や芸術や科学思想は大切な時代要素でありますが歴史区分をするにあたってそれらはいわば副次的なものです。第一義的に考えられるべきは国家体制、安全保障、政治形態、人々の思想などです。つまり人々の根本的な生き方の違いにこそ歴史区分の基準は求められるべきでしょう。その時代基盤の上で初めて学問や文化という要素は考慮されるものとなる。

学問や文化と同じく、農業、貨幣経済、武器、芸術、建築なども時代要素と考えられますが、但しそれらは時代基盤の上で営まれる人々の諸活動であり、大いに盛り上がりを見せる時もあれば静かに停滞している時もあり、古代、中世、現代の時代の枠組みを超えて絶えず、生成し、変化し、多様化して流れていくものです。学問や農業や貨幣経済の変遷は基本的に古い時代の単純素朴な形や性能から今日の高度で複雑なものへと進化する。あるいは小規模なものから大規模なものへと発展する。それは人間の生活を向上させ、時代を豊かに彩り、人類の努力と進歩を証明するものといえます。

しかしこれらの時代要素はあくまでも時代基盤の上で活動し常にその姿を変えるものであり、しかし国家の形を決定するものではありません。いわば歴史の変数です。それは国家統治を表す定数ではなく、従って歴史を区分けする基準とはなりません

歴史学者は衝動的に歴史を区分したといえます。時代基盤よりもその上で踊り、歌う芸術や科学思想に焦点を当てた。そのためこの粗雑で誤った解釈は歴史の整合性を損なうことになる。つまり歴史学者は現代がイタリアルネッサンス期から始まるといっておきながらルネッサンス期が現代であるとはどうしても証明できない。それはそうです。時代は明るくなったといってもルネッサンス期は依然として中世です。現代とは違う。そこでは封建領主が支配者であり、騎士たちとともに戦いに明け暮れていた。そこには国民国家もなければ国民議会もない。

それで困った挙句、歴史学者は近世という便宜的な歴史区分をひねり出すことになった。早期現代という奇妙な区分です。現代かもしれないが現代ではないというあいまいなものです。それは中世と現代を結ぶ過渡期のようなものとして便宜的に設定され、それ故その区分自体は固有の時代基盤を持っていないものです。架空の時代です。そしてこの苦し紛れにでっち上げられた時代が今、堂々と世界標準になっている。古代、中世、近世、そして現代という歴史区分として世界中にはびこっています。

歴史学者は現代が明るいルネッサンス期から始まったと早とちりをしてしまった。本来の中世は余りにも短く切り取られ、そして逆に本来の現代は余りにも長く設定された。実際の中世の後半部分は削除され歴史から葬り去られた。中世の後半部分は地中深く埋められ、その土の上に墓標が立てられた。中世の衰えた姿、矛盾を抱えた姿、そしてその死を表現することは放棄された。中世の誕生から死までの中世のすべての姿を見ることはできなくなった。

近世という架空の時代は歴史学者の隠れ蓑です。15世紀から18世紀までの期間は近世と呼ばれるようになる。小細工にしては陰湿です。しかし哀れなことに世界の歴史学者のほとんどは近世というこの実体を欠いた歴史区分をそのまま認めてしまった。能天気な同調者たちです。

さらに苦笑を誘うことですがロシアや中国といった古代国もまた自分の国の歴史を古代、中世、近世、現代という四つに区分けした。彼らの古代史の中に中世や近世や現代を無理やり詰め込んだ。大胆不敵な行為です。あるいは資本論の説に従い実体を伴わない、偏向のある時代区分を行っている。いずれにせよ彼らの国には中世はありません、封建領主も武士も現れなかった、主従政治もなかった、双務契約も結ばれなかった。そこには専制君主しかいません。それにもかかわらず彼らは彼らの歴史を四つに切り分けた。このような悲喜劇は中世の定義があいまいであり、むしろ無きに等しいから起こるのでした。

歴史を歪めて作り出された近世は明らかに中世後半のことです。特に中世フランスにおいてはルネッサンス期からフランス革命までの期間がそれにあたります。そこでは中世の時代基盤が徐々に崩れていき、中世の限界が露わになっていく。中世が盛りを過ぎて衰えを示している。中世の花形である封建領主たちの力が弱体化して、その代り王権が強大化する時代です。それは専制政治に近いものであり、絶対王政と呼ばれた。

しかしどの時代であっても初めから終わりまで時代基盤が盤石な時代というものは存在しません。必ず緩みや矛盾が噴き出し、衰えが始まるものです。そのような期間を無視し、歴史から葬り去るということは決してしてはいけないことです。

それは平安時代の状況と同じです。つまり平安時代の後半は、古代的な要素が徐々に失われていった時代ですがそれでもそれは平安時代であり、あくまでも古代でした。それに異を唱える者はいません。それとも平安時代の後半をわざわざ<古中世>時代とでも名付けるのでしょうか。意味がありません。むしろ古代の姿を、そして平安時代の姿を歪めてしまう。時代の死までを冷静に見届けるべきでしょう。

絶対王政とはルイ14世の治世に象徴される政治制度です。ベルサイユ宮殿における華やかな宮廷政治です。王様による専制的支配です。そして中世はすでに過ぎて、現代へと至る時代、すなわち近世に入っていたと考えられた時代です。それまでの分権制は廃止され、すべての領主たちは既得権を失い国王ルイ14世の足下に一斉にひれ伏す、そんな中央集権的な剛腕政治が行われていたと言われてきました。そしてその絶対王政の行き着く先がフランス革命であった、というわけです。

中世フランスにおいて15世紀ころから王権は目立って強くなっていった。それはいくつもの戦争を通じて中小の領主たちが戦役の重さに耐えかねて没落していったからです。彼らの持っていた権力の多くは王権に集約されていく。それは中世の支配者層の間での国家権力の緩やかな移行でした。

そのため中世の主従政治は次第に王中心の専制的政治へと変わっていく。王が領主たちの上に立つ。それは中世の時代基盤が徐々に壊れていく姿です。この政治は中世末期に頂点に達した。それがルイ14世の絶対王政です。

そしてさらに周辺国との度重なる戦争は王に常備軍を持たせ、王の下に官僚組織を充実させた。貿易、商業、工業の発達そして国家間の経済上の競争は王に諸々の規約や組織を設けるよう促す。これらは確かに王権の強化につながるものであり、現代を準備する事柄でした。

しかしそれでも王は領主たちを全く無視して政治を行うことはできません。古代王のような絶対的な力を持つことはなかった。というのは王が領主たちや聖職者や都市と双務契約を交わし続けていたからです。これは古代王と決定的に違うところです。中世の骨格である双務契約はしぶとく存在し続け、そのため契約当事者は互いを認め続けます。

双務契約を交わすことは相手の権利(免税権など)を認めることであり、一方王による集権化はその権利を剥奪することです。つまり双務契約を結んだまま王が集権化を図ることは矛盾です。王は奪うことだけを考えている。言い換えれば中世の身分制を残したまま集権化を図ることは不可能です。集権化は文字通り中世の時代基盤をすべて破壊しなければ達成されません。いずれにせよ王の都合次第の、勝手なやり方に領主や聖職者や都市が反発することは当たり前です。王は主従政治の網の中から抜け出せないでいる。

すなわち絶対王政とは名ばかりです。ベルサイユ宮殿は砂上の楼閣でした。絶対王政は中世末期の特殊な政治形態であり、分権制がその限界を赤裸々に見せてはいたものの、フランスの領主、聖職者そして特権都市は当時もなお免税権を持ち、分権制を維持しています。フランスの特権階級はまだ健在であり、王は国家権力を独占できる立場にはいなかった。ですから絶対王政は<相対王政>と呼ばれるべきものです。主従政治の一形態です。

だからこそルイ14世やルイ16世は領主の免税権を取り上げようといろいろ画策して、そして失敗したのです。そんな彼らの紛争がフランス革命の導火線になった。すなわちルイ14世の華やかな宮廷政治は一見、専制、中央集権的に見えるが実際は領主たちとの共同作業であった。ルイ14世は古代王にはなれなかったし、領主たちも腰抜けではなかった。中世の双務契約は存続し、その権利と義務はルイ14世やルイ16世を堅く縛り付け、彼らの自由な動きを封じていた。

歴史学者は専制君主然としたルイ14世を見て中世がすでに過ぎていたと錯覚した。歴史学者はルイ14世がフランスの国家権力のすべてを掌握し、そして領主たちを完璧に従えていた、だからフランスは中世から脱却したと信じた。しかしそれは誤った解釈でした。

絶対王政の時代は中世の後に続く時代ではなく、中世の内に含まれる時代です。冷静に考えれば中世と絶対王政とを並べて比較することは愚かしいことであるとわかるはずです。中世とは三つの歴史区分のひとつです。その前後には古代と現代がある。一方、絶対王政は歴史上のほんの短い期間でしかない。しかもその時代は世界各国に共通する普遍性を持つものではなくごく限られたフランス史独自のものです。

もし絶対王政と比較する時代があるとすればそれは例えば中世前期の政治です。分権制がしっかりと根を張って封建領主たちが勢いを持っていた頃です。若い、新鮮な中世です。一方、絶対王政という中世末期の時代は老いた中世です。領主たちが力を失い、王が強大な王権を振う時代です。其れでも中世の骨格である分権制や双務契約は廃止されることなく存続していた。ですから王の権力には限界があったというわけです。

ここに数百年をかけて国家権力が支配者層の間で緩やかに移行した中世の歴史が見えてくる。それが中世の全体像です。中世は明らかに誕生期、成長期、盛期、衰退期そして死からなります。その後半部分を自分の都合で消し去り、代わりにその時代を近世と命名するという蛮行はあってはならないことです。

フランスの歴代の王たちが求め続けた国家権力の一元化はフランス革命によって現実のものとなった。但しそれは中世王を含めた中世のすべてが清算されることで初めてなしうるものでした。そこには例外はあり得なかった。王の存在、領主たち、彼らの双務契約や主従政治など中世の時代基盤の諸々は根底から破壊されあるいは変革され、そして中世は死を宣告された。その時、現代が始まった。

もしもルイ14世が中央集権制をすでに完成し、国内の領国の垣根をすべて取り払って専制政治を実施していたというのなら、フランス革命後、人々は領主たちを追放し廃州置県を断行する必要はなかったことでしょう。もしも領主たちがすでに免税権やその他の特権を奪われて、ルイ14世に仕えるだけの単なる役人と化していたとするならフランス革命において彼らは農民や市民の襲撃を恐れて外国に亡命する必要はなかったことでしょう。

18世紀、中世の時代基盤は確かに弱体化していました、しかし消えてなくなっていたわけではありません。ヴェルサイユ宮殿は特別に豪華な建物でした。ドイツやオーストリアなどの王たちもそれを模倣し、彼らの宮殿を作ったものです。しかし同時にフランスの地方には大領主たちの堅固な城がいくつもそびえていた。そこで領主たちは自治権を持ち領民たちを統治していた。彼らは王に服従していません。分権制は消滅していなかった。すなわち絶対王政とは表面的にそう見えただけのことです。ですから古代、中世、近世そして現代という4段階の歴史観はそもそも成立せず、歴史の実態は古代、中世そして現代という三つの時代の変遷でした。

日本史の歴史学者は西欧の誤った歴史区分や絶対王政の誤った解釈を鵜呑みにして日本史をその誤りのままに仕立て上げた。江戸幕府の政治を絶対王政に近いものと解釈し、江戸時代を近世という枠に無理やりはめ込んだ。すると日本史もフランス史と同様、古代、中世、近世、現代という四つの段階を踏むことになるからです。

そして江戸時代の分権制や主従政治や双務契約のことごとくを無視し、一方徳川家の大名や武士に対する強圧的政策や国替えを大げさに、感情的に指摘し、それを専制政治や中央集権制の証と決めつけた。勘違いも甚だしい。それは実に二重、三重の過ちでした。

歴史学者は歴史的事実を無視してまで何故、それほどまでに日本と西欧の歴史を同調させることにこだわったのか。歴史学者は色付き眼鏡で歴史を眺めています。歴史学者は日本を、日本人をどのように思っているのか。日本人は日本独自の歴史を作って来たのです。歴史学者がそれを否定する、そして歪める権利などない。

江戸時代は紛れもなく整然とした分権制と生真面目な主従政治を持つ健全な中世であり、古代でもなくそして勿論、近世でもない。それは世界史上、最も中世らしい中世でした。

Chapter 05
中世の平等主義

封建領主の二面性

中世に現れた主従関係は古代の上下関係とは異なるものです。中世の主従関係は上下関係と平等関係との二つが同居している。不思議なことに見えますが、中世人は上下関係の中に生きていながら同時に対等でもあったということです。それは中世の根本的な矛盾でもあります。

この奇妙な関係は歴史の流れとして次のように説明できるでしょう。つまり上下関係だけが存在していた古代社会に突然、平等主義が勢いよく流れ込み二つは混在した、その時、中世が始まった、と。言うまでもないことですが平等主義は双務契約の開発によって契約当事者の間に生じたものです。領主と武士は契約上、対等です。そして領主と農民も契約上、対等です。それは中世の平等主義であり、私はこれを二者の平等と名付け、現代の万民の平等と対比させます。

中世に平等主義は似合わないという意見が一般的でしょう。歴史学者もこれに同意しないかもしれない。けれども平等主義は中世に確かに誕生していた。双務契約を結ぶ封建領主と武士は契約上対等です。そして同じように封建領主と農民も対等です。両者は運命共同体を形成し等しく同じ重さの義務を負っています。両者は互いに相手の生存権を握っているのですから。契約破棄が起きますと当事者の一方だけではなく他方も生存の危機に陥る、つまりどちらがより重い、軽いといった義務の重さを比べる行為には意味がないのです。

平時において武家の主従関係は穏やかに均衡を保っていた。上位者の命令は下位者を認めたうえで発令され、下位者の生命や財産を一方的に奪うことはありません。それは抑制された命令であり、双務契約の締結が上位者に自制を促しているからです。相手があっての自分です。

ですから中世では統治者が、問答無用に命令を下すことは流行らない。それは野暮な統治者であり、下位者である武士や農民はそんな領主に対しはっきりと抵抗を示した。封建領主は上位の立場にあっても誠実に、そして寛容さをもって武士や農民に接した。

主従関係は上下関係だけではなく、同時に平等関係をも含んでいますから主従関係は二層構造から成り、上下関係と平等関係の二つは不可分の関係にあります。そして重要なことですが平等関係は上下関係に優先している。契約当事者が互いに契約義務をしっかり果たし、契約が問題もなく履行され、彼らの平等関係が維持されていれば両者は上下関係を認めて、上位者は下位者に命令を下すことができ、下位者はこれに応える。

中世人の主従関係は双務関係(平等関係)が大前提になっています。幕府が大名たちの土地と自治権を認め、両者が対等な立場であることを保障する限り、大名たちは幕府の厳しい命令にも従った。幕府が大名たちの権力を尊重し、領国の行政権や司法権や徴税権を認めているから大名は幕府に妻を人質に差し出すことも城を新しく築かないこともあえて了承した。中世の上下関係は双務契約と不可分に結びつき、主従関係を構成しています。

ですから幕府の命令には限界があります。幕府の命令は大名たちの自治権を侵食するものであってはいけない。例えば幕府の命令が大名の徴税権を侵して、大名が本来、手に入れるべき税を徳川がかすめ取るようであれば大名たちは最早、徳川を彼らの上位者とは認めずその命令に従わず徳川と対決し牙をむく。何といっても彼らは徳川と同じ自立権を持つ封建領主です。これは頼朝以来の中世の真実です。

それが中世の分権制統治です。中世の上下関係はあくまでも平等関係の上に成立する。他の大名たちもこうした徳川の行為を必ず非難することでしょう。中世の原理である分権制が破棄されるからです。大名たちは徳川の飼い犬ではない。このことは日本であってもフランスであっても中世社会である限り、同じことです。徳川は従って慎重にそして誠実に大名に向き合わなければいけません。歴史学者が徳川を専制君主と呼ぶことは全くの見当外れです。

領主と農民との関係もこれと同じです。領主が農民たちの村の自治を保障するから農民たちは領主からの面倒な命令に従うのです。自治を保障しなければ命令に従いません。それが中世の統治です。

言い換えますと分権制統治は人々の生存権を保障する統治です。双務契約を交わす大名も武士も農民も自立する権利、つまり基本的な生存権を確保しています。中世王はこの権利を侵すことはできない。もし侵した場合は人々に非難され、抵抗を受け、双務契約は破棄される。人々の抵抗権の発生です。安全と秩序は消滅する。従って、中世の支配者の命令は通常、人々の生存権を侵さない限りにおいて発せられ、そして有効であった。

一方、古代社会において上下関係は絶対的なものであり、条件は一切ありません。古代王の命令は何ものにも拘束されない、問答無用の命令です。彼は彼の兵士や農民と一切、双務契約を結んでいませんからここには平等主義はありません。ですから兵士や農民は主張すべき権利を持たず、従って抵抗もできません、ただ服従するばかりです。古代の支配者は人々の生存権を侵すことに何のためらいもない。

古代には人々の生存権はありません、中世には生存権が確立した、そして現代には生存権(安全保障)と生活権(社会保障)の二つが確立しています。人々の権利は古代から、中世、そして現代へと美しく変遷しています。そして中世に現れた抵抗権は現代の民主政治にとっても重要です。それは支配者を批判する正当な権利であり、中世人はこれを力強く行使した。中世の抵抗権は現代において任免権に進化したといえます、すなわち民主国家の職業政治家は人々の承認(選挙制)の上で初めて統治をおこなうことができる。承認を得られなければ彼または彼女は政治家になれません。それは抵抗権の最終的に発展した姿といえる。ここにもまた中世の存在意義があり、中世は現代をしっかり準備していました。さらに言えることは抵抗権が中世社会に存在していたことは中世に平等主義が誕生していることを証明するものです。歴史学者はこの証明に同意しないのでしょうか。

歴史学者は主従関係というものを正確に理解していないようです。歴史学者はそれを忠誠心の加わった上下関係と単純に考えているのではないでしょうか。そこに平等関係というものが含まれていることを知らない、ですから主従関係が上下関係と平等関係との二層からなることにも無知でしょう。そしてこの特殊な関係が幕府と大名の間や封建領主と武士の間にあるばかりではなく、封建領主と農民の間にあることにも気付いていないのではありませんか。それが中世統治の核心の一つであるというのにもかかわらず。勿論、平等関係が上下関係に優先するという主従関係の重要な構成についても知らないのでしょう。

歴史学者には幕府の大名に対する慎重な命令と古代王の発する問答無用の命令との違いが判らない。そのため歴史学者は幕府の厳しい命令を専制政治の証と誤解し、そして大名たちは最早、徳川の言いなりであり古代の兵士のような服従者であると錯覚する。その結果、徳川を専制君主と決めつけ、江戸時代を中世から離脱した別の時代、分権制が消滅し中央集権制の確立した時代、つまり近世という絶対王政あるいは絶対王政に準じる時代であると錯覚した。

これは歴史学者の決定的な過ちです。徳川は横暴な支配者でもなく、大名たちも哀れな被治者でもない。徳川は人々の生存権に抵触しない限りにおいて厳しい命令を発していた。双務契約は守られ、分権制は維持されていた。だからこそ中世日本の支配者層(徳川と大名たち)は中世フランスの支配者層とは異なり権力闘争を起こさず、270年の長い平和を築いたのでした。歴史学者にあっては中世の主従関係の真の姿や平等主義の出現は全く理解されていません。繰り返しますが江戸時代は中世であり、分権制が布かれ、主従政治が行われています。近世という時代は存在しません。

ところで領主と武士や農民との間の主従関係は徳川と大名たちとの主従関係と同じでした。領主は武士や農民との双務契約を守ることで武士や農民に命令を下すことができた。

そして主従関係が崩れる場合、その原因のほとんどは領主の側にあった。主従関係の問題は領主が武士や農民をしっかり保護するか、それとも領主の勝手な都合からそれを無視するかどうかの点にあるといえます。領主が彼らとの間の平等関係を踏みにじるようなふるまいをすれば彼らの上下関係は消滅し、主従関係は破綻する。

主従関係は長く維持されることもあれば破綻することもある。戦場で領主や武士が討ち死にしたり隣国によって国が乗っ取られたりするという外的な要因を別にすれば主従関係の破綻原因の多くは領主の勝手なふるまいにある。領主が武士との契約義務を守らない場合です。つまり領主が武士を保護せず、例えば武士の戦功に準じた報酬を与えない、あるいは武士を奴隷のように扱う。それは古代王の専制支配のようなものです。領主は主従関係の一面である上下関係だけを採用し、残酷な命令を武士に発し、しかし他面の平等関係を無視して顧みない。

戦国時代、戦国大名は時々こうした振る舞いをした。喰うか喰われるかの戦乱の世ですからそうしたことが起こっても不思議ではない。例えば信長と光秀の関係です。光秀の裏切りにはいくつもの理由が考えられるでしょうが、その一つは信長の光秀への保護が十分なものではなかった、むしろ不確かなもの、疑念を挟むものであったことではないでしょうか。

光秀は信長を信じられなかった。信長の専制的で、激情にかられる性格から彼の下す評価や報酬は信頼に足るものと思えなかった。信長によって与えられた報酬も一寸した落ち度から明日、そのすべてが信長によって剥奪されるかもしれない。決して安心できません。さらに敵に対する皆殺しといった信長の容赦のない残酷な仕打ちも戦のルールとして納得できるものではなかった。主君が契約義務を守らない、つまり主君の勝手なふるまいは彼らの平等関係を損なうものであり、そうであれば彼らの上下関係も成立せず、主従関係は最早成立しない。ですから光秀は信長を彼の主君とは認めず、彼の命令には従わず、その憤りから彼に反逆し、暗殺した。

それは中世人の持つ<抵抗権>です。中世は契約社会ですから古代には存在しなかった抵抗権というものが誕生していた。抵抗権とは彼らの契約が踏みにじられた時、それに抗議する権利です。そして契約を破った者は例え上位者であろうと契約相手から強く抗議される。彼は単に非難されるだけではなく、離反され、裏切られ、あるいは実力行使さえ受ける。その究極が暗殺です。主従関係の成立は従って彼らの平等関係がしっかり維持されていることが絶対条件です。そしてその上に上下関係が機能する。

同様に農民たちとの契約に違反した時、領主は農民たちから強い抗議を受けた。それもまた抵抗権です。例えば領主が財政難に陥った時のことです。いろいろな原因はあるでしょうが財政難に襲われた領主は前後の見境もなく、自制心を欠いて農民に重税を課した。それは彼が農民と交わしていた税や税率をはるかに上回るものでした。明らかに契約違反であり、権力の乱用でした。なりふり構わず彼は強盗に変身し、農民の財産を横領した。それは農民をひどく苦しめた。

その時、農民たちは抵抗権を振りかざす。彼らはデモや実力行使で契約違反者に迫った。しかし多くの場合、領主はその圧倒的な武力で農民たちを抑え込んだ。武家同士の争いとは違います。それでも農民たちは領主を突き上げ、増税の中止を勝ち取ったこともありました。

平素、領主は税率を決める際、過去の経験や天候の具合、そして農民たちの言い分を参考にした。古代王のような一方的な決め方ではない。非常識に高い税率は農民たちを敵に回すことになる。農民たちが渋々でも納得する程度に落ち着く。農民との争いは好ましいものではありません。できるだけ避けた方がよい。実際、江戸幕府は農民と紛争を繰り返す領主を統治の不適者として厳しく罰していた。

領主は農民に様々な命令をした。そのほとんどは税をきちんと納めて欲しいからのものです。贅沢をするな、木綿の服を着ろ、絹の服を着るな、農地を売るな、町に住むな、商人となるな、などです。うるさい姑のようです。農民たちは命令の出た直後はそれに従い、しかしいつの間にかそれを無視するようになるそうです。こうした領主の命令はその当座、農民たちの自由をある程度奪うものかもしれません、しかし村の自治までを侵犯するものではありません。領主の命令はあくまでも抑制的なものでした。

それでも領主は時々、残酷な古代王に変身した。財政難に苦しむ領主は農民たちにその責任を転嫁する。重税の他にもう一つ例を示してみましょう。それは江戸時代後期に全国的に広がった専売制です。領主は農業や商業の分野に入り込み、農産物や海産物の生産や販売を独り占めした。

領主は特定の商人と手を組み、一般の農民や商人を排除して例えば塩や油などの生活必需品や市場価値の高い特産物などの商売を独占した。市場価値の低いものは今まで通り、一般の農民や商人に任せた。その結果、領主は大もうけした。

これもまた上位者による下位者の財産の横領です。この専売制によって人々はこれまで携わってきた仕事を奪われ、生活の糧を失う。これも領主の裏切りです。重税の時と同じく人々は生存の危機に陥る。江戸末期、全国各地で農民たちの一揆が吹き荒れましたが、その原因の多くはこの専売制のためです。西郷隆盛や大久保利通が明治維新を断行していた頃、彼らの国、薩摩でも専売制が布かれて多くの農民や商人を苦しめていた。

かつて双務契約を開発した領主は今、自らそれを破壊している。平安時代後期、古代王朝が自らの足を食べ始めたように中世の統治者たちも自分の足を食べ始めていた。中世統治の限界です。重税や専売制によって農民にとっての安全保障は大きく損なわれた。当然、農民たちは抵抗権を振りかざし、一揆を組む。さらに農民たちは職をもとめ、村を捨て町へと走る。村は疲弊し、町の治安は悪化する。領国は混乱を極める。領主の圧政は農民を経由して領主自身に災いをもたらす。中世統治の形が壊れた。この点、江戸時代後半は中世の衰退期といえます。

歴史論において古代支配と中世支配はしばしば混同されます。その原因は封建領主の持つ二つの顔、つまり中世の二面性にあるのです。領主が古代の顔を見せる時、つまり彼らの契約を踏みにじる時、封建領主と古代王との違いが全く消えてしまう。両者は等しく無慈悲な専制君主となる。古代と中世とが一つに重なる。これが古代と中世とが混同される原因であり、そして中世が誤解される原因です。そのため領主はいつも農民を虐げる残酷な支配者として非難され、中世は暗黒な時代と蔑まれる。

しかし多くの場合、中世のもう一つの優れた面は見向きもされない。優れた面とは中世に誕生し、主従関係を形成した平等主義によって生み出された社会です。封建領主と人々が互いに認め合い、それぞれの契約義務をしっかり果たしている、均衡のとれた状態です。そのような社会は江戸時代、長く続いた。それこそ強調されるべきものです。

平等主義の出現が古代と中世とを根本的に分かつものであり、そして中世を現代へと繋ぐものだからです。中世の平等主義は人類の歴史にとって決定的なことでした。歴史学者は中世人の負の部分をあげつらうことだけではなく彼らの偉業を褒めたたえるべきでしょう。

一方、ロシアや中国や中東諸国のように古代国にとどまっている国では上記のような支配者の二面性は存在しません。古代は契約社会ではありませんから権利や義務という観念はなく、王にあるのは権利だけです。古代王は絶対者であり、一切の義務を持たない。一方的な上下関係だけがあり、二者の平等という平等関係はありません。ですから支配者の命令は抑制の無い、問答無用の命令となる。それは人々の生命や財産を根こそぎ奪うこともある。王は一片の配慮も必要としない。

こうした残酷な命令に対し古代の人々は王に哀れみを請うばかりです。それが古代の人々に許された唯一の抗議です。あるいは絶望から反乱を起こす。古代には双務契約がそもそも存在しませんから契約違反というものがありません。ですから契約違反をとがめる行為は発生しない。つまり古代には人々の抵抗権がありません。服従しかないのです。彼らは王の住む都に上り、王が持つかもしれない博愛の情にすがり、ひたすら王の許しを求めるのです。これがロシアや中国や中東諸国の現実の姿です。

王の許しを得られない場合、古代人は絶望から反乱を起こす。しかし反乱はほとんど常に鎮圧され、その首謀者は逮捕され厳しく罰せられる。その中で奇跡的に反乱が成功することがある。万に一つの確立です。その時、古代国の時代は変わる、これまでの古代国が打倒され、反乱の指導者が新しい古代王となり、新しい古代国を樹立する。これもまた古代国の盛衰です。隣国からの侵略によるのではなく国の内部から崩壊する場合の古代国の変遷です。

ところで領主と農民の関係を主従関係と呼ぶことに異論があるかもしれません。主従関係は武家に限る、と歴史学者は主張するかもしれません。しかし双務契約を交わし同時に上下関係にも縛られている中世人の二面性を指し示す言葉は存在するのでしょうか。どうしても見つかりません。それは例えば上下プラス平等関係とでもいえばよいのでしょうか。あるいは二面性関係とでも呼ぶべきでしょうか。ですからここではとりあえずそれを主従関係と呼んでおきます。

この言葉の不足は歴史学者の怠慢を示すものというよりも彼らが双務契約というものを真に理解していない、主従関係という言葉を安直に使用している、そして中世の実相を正確に把握できていないことを図らずも露呈しているといえるでしょう。

平等主義の変遷

平素、中世の統治者は誠実であった、しかし例外も確かに存在した。財政破綻など領国の危機に際し、背に腹は代えられないとして領主は独裁者に変身した。ですから平等主義は確かに中世に誕生していたが決して十分に確立したものとはいえなかった。二者の平等は領主権の乱用によって押しつぶされるはかないものでした。それは中世の限界であり、古代と現代とをつなぐ過渡期として存在する中世の宿命です。

現代化革命とはこの例外を完全に除去することでした。中世の二面性の超克です。それがフランス革命であり、明治維新でした。自分の都合で平等主義を押しつぶす封建領主という不安定な人種を革命は根こそぎ除去した。そして新しい支配者として憲法を据えた。憲法はいつ、いかなる時も冷静であり、変わることなくそして例外を作らず誰に対しても一律に対応する。憲法はいい加減な人間にとって代わった。

古代の専制君主、中世の封建領主、そして現代の憲法、それぞれの時代は固有の支配者を持った。古代王も中世王も程度の差はあるものの権力を悪用して人々を圧迫する点では同じでした。一方、現代の支配者は憲法であり、常に冷静で権力の乱用など起こさない。人間の支配から法の支配への大転換でした。不確かであった二者の平等が恒常的に、そして普遍的に存在する万民の平等へと変わった。

中世の抵抗権は現代化革命において選挙権へと変質した。抵抗権は国民の権利として認められ、民主制度の中に正式に取り入れられました。憲法の下で実際の政治を行うものは職業政治家です。職業政治家が故意にあるいは不運にも悪政を働いた時、国民は次の選挙においてその政治家やその政党を非難し、落選させ野党へと引きずり落とす。ですから政治家は独裁的に政治を行うことはできないし、国民の利益に反する政治を行うこともできない。それは抵抗権というよりも任免権です。人々は政治家の上に立つ。それは古代や中世の支配者にとっては考えられないことです。(一方、選挙制は衆愚政治を生む条件にもなる。)

歴史上、平等主義は段階的に発展していきました。ゼロから始まり、二者の平等、そして最終的に万民の平等へと推移した。それは歴史の美しい軌跡です。その軌跡は先人たちが古代や中世の特権階級と争い、命を懸けて打倒した結果、手に入れたものです。人々は古代王と古代統治を滅ぼした。次に人々はすべての封建領主を追放し中世支配を破壊した。それらは流血の惨事を引き起こす革命ですがそれを断行した国が今、先進国となり民主政治を実施している。

古代、中世、そして現代という歴史区分を平等主義の観点から数式で表示してみましょう。古代は統治者>被治者となる。中世は統治者≧被治者、そして現代は統治者=被治者です。古代と現代は単純です。古代は王が絶対者であること、人々は服従者であることが示されます。そして現代は国民が支配者であり、同時に被治者であることを表しています。一方、中世は複雑です。古代と現代とが同居していて、封建領主は上位に立つ支配者でありながらも同時に、被治者と等しい関係にあることが表示されます。

それでは近世を主張する歴史学者はどのような平等主義が近世に存在していたというのでしょう。それとも近世にはすでに万民の平等は存在していたというのでしょうか。近世を数式で表示できますか。中世の二者の平等の次に現れるものは例えば三者の平等でしょうか。それとも四者の平等でしょうか。万民の平等へと繋がるはずのどのような平等主義が近世に開発されたというのでしょう。しかし近世固有の平等主義などそんなものはありません。そこにあるものは二者の平等です。

歴史学者は中世の本質を理解していません。彼らは中世を酷評する。領主が農民を重税で苦しめていることを強調する。映画やテレビも同じようにその場面を繰り返し描き出し、中世社会を悪く言う。確かに領主の権力乱用は存在した、しかしそれはあくまでも中世の一面であって全体ではない。それにもかかわらず歴史学者はその一場面を切り取って中世の全体像として描き、中世を罵倒する。その結果、誤った領主像や農民像が描かれ、真っ黒に塗り潰された中世像が出来上がる。歴史学者は領主と農民の双務契約や平等主義や中世の二面性を全く見逃している。

敬老思想の毒

先進国においても平等主義は未完成です。例えばそれは性差別です。性差別の撤廃運動は現在、西欧やアメリカも含め世界的な取り組みが行われています。一方、日本には日本特有の不平等がある。それは年齢差別です。日本人の中に今も根強く残っています。江戸時代に広まり、日本社会に深く定着した敬老思想がその原因かもしれません。

敬老思想は年長者への尊敬を促すものです。それは悪いことではありません、問題は年長者を過度に敬うことであり、そのため年長者へ絶対服従を強いることでした。過激な敬老思想は社会に悪影響を与える、それは社会の変革を許さず、人々をいつまでも既存の体制に縛り付ける。実際、今も日本人は社会の固定化に鈍感です。

敬老思想は支配者の思想です。江戸時代、社会の変化や混乱を嫌う幕府や領主は敬老思想を大切にした。彼らはこの思想をより過激なものに変えて、武家社会にだけではなく広く日本全体に広めた。その結果、年長者に逆らうことは悪となった。人々は年長者の言うこと、行うことに異見を差し挟まず従順に従うようになる。そのため既存の制度や組織は長い間、変更されることなく社会は固定化された。人々は現状打破を考えず、既存社会の中に静かに引き込もった。270年間の平和はここからももたらされたといえるでしょう。

今日では過激な敬老思想は消えかかっているように見える。けれども年齢や経験年数を絶対視する、一種の敬老思想は今も消えることなく日々、生産され続けている。それは先輩、後輩の上下関係です。これは日本社会を不平等、不条理な社会にしています。日本は息苦しい、先輩の前で自由にモノが言えない。会社、役所、スポーツ界など様々なところで先輩が常に主導権を握り、後輩は先輩の前で委縮して自由に発言できません。時に先輩は独裁者のように振る舞い後輩に暴言を吐き、乱暴を働く。

残念ながら日本では年長者への尊敬の念が年長者への服従に変質してしまっている。それは大きな問題です。それは日本人が<年齢>から自立できていないことを示している。日本の弱点です。日本人はこのことをはっきり自覚すべきです。中東人が宗教を絶対視し、そのため宗教に支配されてしまっているように日本人も年齢を絶対視して年齢に支配されています。冷静にそれを考えればその不条理に気つくはずですが。

年齢による専制支配は一種の上下関係です。明治維新が人々の上下関係を廃止したにもかかわらず、それから100年以上経つというのにいまだに日本人は年齢から自立できていない。その結果、日本社会の新陳代謝は不活発です。偏狭な年齢主義が若い人たちの自由な言論や行動を妨げて実力主義を拘束しあるいは排除する。国家的損失です。

まるで江戸時代のように既存の体制や思想や大家といわれる年長者がいつまでも温存され続け、不条理な事柄でさえ容易に打破されずにいる。若い人たちの創造力が実を結ぶことなく消えてしまう、あるいは年齢主義を盾にして若い人たちが挑戦者精神を捨てて保身に走る。

日本の都市や企業や様々な組織からいかに多くの改良や革新の芽が無残に摘み取られていることか。現実、世界の国々と生存競争を繰り広げている以上、日本はこの弱点を克服しなければいけないのではありませんか。それは決して美点ではありません。年長者を敬うことは大切です、しかしその人物に支配されてはいけない。家庭でも義務教育の場でも真剣に(法の下の)平等主義というものを考えるべきでしょう。

言葉はその人となりを表しますから日本人の言葉である日本語は敬老思想を見事に体現している。先輩には特別に丁寧語が使われる。一方先輩は後輩に横柄な言葉使いをする。その点、若者の<ため口>言葉は日本語の異端です。それは年齢に基付く上下の関係を排除する。年寄りに対しても子供に対しても同じ友達言葉です。<ため口>の話し手は相手が年上だろうが年下だろうが年齢にかかわらず対等に言葉を発し、強圧でもなく服従でもなく対等な態度で接する。それは社会の固定化や不平等に対する若者たちの無意識の抵抗かもしれない。

しかし多くの日本人はため口言葉に拒否反応を示す。年長者への敬意を欠いた、乱暴な言葉ととらえている。それでいて日本人は英語で話す時、ため口言葉を当たり前のように使っている。英語はため口言葉です。英語にも丁寧語はありますがそれは純粋に丁寧さを示すもので年長者への服従を示すものではない。YouはYouです。

日本、西欧、アメリカそしてその他の先進国においても平等主義はまだ十分に確立されているとは言えません。日本の社会においても小型の特権者があちこちに巣くっていて既得権を握り、人々の自由な活動を拒み、社会を固定化しています。現実は次第に歪められていく。特権者は政界にも官界にも経済界にもその他至るところにいて日々、不平等を働いている。(法の下の)平等主義を社会に深く根付かせるためそして特権階級を二度と形成させないためにも一つ一つ不平等を平等に転じていかなければいけないでしょう。明治維新は終わったのではありません。

Chapter 06
武士のこと

武士と忠誠

領主と武士の主従関係は中世の花形の一つです。特に武士の忠誠心は胸を打つ。それは歌舞伎や小説でたびたび取り上げられ、人々を感動させます。

ここでは武士の主君への忠誠についてみてみましょう。武士の忠誠心は一様ではなく、多様に現れていた。時代の変遷に伴って武士の生き方は変わっていったからです。

鎌倉時代初期の領主と武士の主従関係は素朴で直截でした。室町時代、それは混乱していました。戦国時代は刹那的で、真剣なものでした。江戸時代の主従関係は異様でした。

鎌倉時代は主従関係の誕生期でした。主従関係は武家社会を根底から支えるものです。頼朝は新恩給付として武士を地頭に任ずるなどして積極的に武士の自立を支援した。そして武士もまた頼朝に忠誠を誓った。例えば<いざ、鎌倉>という言葉は武士の主君に対する素朴で熱い忠誠心を示すものであった。

一方、幕府の方針や武家の規約に背いた者はたとえ家族であっても一切の弁明を許すことなく殺害した。生まれたばかりの主従関係を深く根付かせるため、そして武士たちに双務契約を正確に理解させるために家族主義や縁故主義は一切通じないということを徹底的に知らしめねばならなかった。

室町後期、主従関係はほぼ破綻していた。下剋上の吹きすさぶ世の中、昨日の上位者は今日、下位者になる、そして下位者が逆に上位に立つ。こんな状況下では武士が一生一人の主君に仕えることはそもそも考えられない。彼らの交わす双務契約は紙のように薄かった。

戦国時代では武士が二度、三度主君を変えた。領主にとっても武士にとっても武士が一人の主君に一生、仕え続けることは理想でした。けれども戦国の世の主従関係は一時的なものとなることが多かった。それが現実でした。領主も武士も生き延びるために激しく離合集散を繰り返していた。周囲の情勢が刻一刻と変化する戦乱の世において武士は敵方へ寝返ることもあった。戦の敗北や主君の討ち死にや裏切りなどが日常的に繰り返さる時代、彼らの双務契約は度々解約され、そして主従関係が破棄される。その度に武士は新しい領主を探し、新たな契約を求め、新しい主従関係を築く。

戦国時代の領主も武士も生死を賭けた主従関係を結んでいた。武士は領主のために命を懸けて敵と戦った。その関係は真剣で固く、緊密であった。互いに忠誠を誓い、深く信頼し合う。戦国時代の主従関係は生身のようで、切れば血が噴き出すように新鮮なものでした。ですから契約相手を見極める目が領主にも武士にも求められたし、契約を維持するために密度の濃い主従関係が要求された。

戦国時代、武士の中には討ち死にした主君の後を追って自害した者もいた。殉死です。武士の忠誠を極限で示すものかもしれません。しかし殉死はそれほど多くは起きていなかった。希少であるからこそ高く評価されたのでしょう。主君と緊密な関係を結んでいた少数者がそれを決行した。しかし大半の武士たちは現実的な生き方を選んでいた。

実際、多くの武士が殉死を選んでいたら秀吉が天下を取った時、武士の数は激減していたことでしょう。勿論、そんなことは起きませんでした。例えば信長の死後、秀吉や勝家などの織田家の有力武将は直ちに信長の後継を巡り、争いを始めた。誰も殉死しなかった。

無私の精神

ところで江戸時代の武士は例外的な存在です。彼は明らかに鎌倉時代の武士や戦国時代の武士と異なっていた。江戸時代の武士は一生、同じ主君に仕えた。それが普通でした。主君を変えようとする気配すらなかった。それは一見、鎌倉時代や戦国の武士たちが求めた理想の主従関係にみえます。

戦の無い、平和な江戸時代、武家の双務契約はほとんど破綻していました。戦がありませんから武士は領主に武力を提供しようと思ってもできません。しかも武力行使は幕府によって固く禁じられている。それでいて武士は領主から土地を安堵され続け、安全は保障されている。彼らの契約は明らかに片務的となっています。

江戸時代の武士は武力の代わりに行政や警護や裁判などを担当し主君を助けた。そういう仕事は得意ではなかったがそれでも次第に慣れていった。彼らの双務契約はそのため一応双務的に見える。しかしそのような仕事は農民も町人もやろうと思えばできるものです。実際農民の一部は領主の行政官になり、帳簿をつけ算盤をはじいていた。

武士の肩身は狭い。戦の無い時代ですから討ち死にすることもなく領主も武士も長生きする。武士は一生、同じ領主に従い続けることが当たり前になっていた。それはまるで優雅な失業対策です。武士の存在理由は限りなく小さくなった。武士は契約のただ乗りは自分のせいではない、平和な時代環境がそうさせているのだと言い訳をしたい。

武士は戦地においてではなく、平穏な日常において領主に忠義を尽くそうとする。それは涙ぐましい努力です。双務契約の対等性を信じていたからこその苦しみです。しかしそれは異様な形となって現れる。例えば領主の前にカエルのように這いつくばってする挨拶や参勤交代や忠臣は二君に仕えずといった思想の強調です。

参勤交代は平和な時代に行われた<いざ、鎌倉>です。主催は徳川家、協賛は大名家の軍事パレードです。それは平和な時代の戦役でした。徳川家も大名家も彼らの結ぶ双務契約を固く維持していくために形式的だけでも戦役義務をわかりやすく果たそうとした。本領安堵に対する忠義の証明です。

敵もいない、真剣も閃かない、実弾も飛び交わない、そんな形ばかりの戦役でも無いよりはましです。それに毎年のように大名行列を眺める農民や町人は武家の強固な支配と武家の揺るぎのない協調体制をしっかり頭に刻みこむことでしょう。

参勤交代の俗論として次のようなものがあります。―――参勤交代は大勢の旅行者の団体旅行のようなものだからその往復の旅行費用は膨大なものになる。徳川家は大名家を金持ちにさせない、団体旅行を繰り返させてその財力を削ごうと画策し、そのために参勤交代という制度を作った、と。この俗論は誤りです。武家のまっすぐな心根は理解されない。武家の双務契約もそして中世の統治も無視されている。

一方、忠臣を称賛する行為は武士たちの間で熱を帯びた。武士は主君から離れず、一生彼を助け支え続ける。どんな主君であろうと、主君がどう振る舞おうと武士は彼に仕え続ける。それは主君を絶対視して自らを無にする行為です。無私の精神と呼ばれた。

江戸時代初期、討ち死にではなく畳の上で病死した主君の後を追う武士が現れる。それは異常なことでした。というのは平和な時代になると主君は戦地で死ぬことはありませんから不満に思う武士は例えそれが病死であってもそれを利用して殉死したのです。しかし武力行使を嫌う幕府は忠義の対象を主君個人より主家とすべしとして、それを禁じた。

主君は一人だけと決め、忠義者を気取る江戸時代の武士は主君の死に接し殉死を選ぶはずです。しかしそれは幕府によって禁じられた。彼は自害できない。そして結局、その後継者である若君に仕える。残念ながら忠臣は二人目の主君に仕えることになる。それでは言っていることと行動が違う。真の戦役もない、自害もできない、それでは主君との契約義務をどうやって果たしたらよいのか。そこに武士たちが葛藤を覚えたとしても不思議ではありません。

一定の法治主義が成立していた江戸時代、武士の双務契約は骨抜きになっていたのです。数世紀に渡り、命を懸けて平和な世を築き、それを担ってきた武士はその平和ゆえに、皮肉にも自らの存在理由を失っていった。無法の地にこそ必要とされた武家の双務契約は法の支配する社会ではもはや飾り物でしかない。

江戸の社会で忠誠は小説や歌舞伎などにおいて増幅され、理想化されて定着した。戦争を知らない者たちが無責任に忠義者を高く、高く祭り上げ、特に無私の精神を最高の忠誠とした。無私の精神とは別の見方をすれば奴隷の精神です。自分の考えを持たず、主人の命令に絶対服従する。極端ですが、死ねと言われれば盲目的に死を選ぶということです。それは双務契約の本来の趣旨とは全く違うものです。

双務契約は無法の地で人々が何としても生き伸びるために作り上げた生存欲の制度です。しかし戦を経験できない江戸時代の武士は主君への忠誠を立証するために自らを奴隷の域にまでゼロ化するしかなかった。理由に関わらず主君に命を差し出す、それが無私の精神です。

それでも無私はあくまでも<精神>であった。それは江戸時代の武士の悲願であったかもしれないが、それは現実的なものではなかった。そして精神であるからこそ止めどもなく忠義の姿は無責任に膨らんでいったといえます。

一方、坂東武士も戦国武士も主君のために命を懸けて戦をしたが、自らを奴隷の立場に置くことはなかった。まともな理由もなしに主君のためだからといってそれだけで死を選ぶことはありえない。武士は奴隷ではなく自立した存在であり、主君との契約義務はあくまでも戦役でありそれ以外で死を求められることはない。忠義を尽くすとは敵を討つことであり無私となることではない。

美化された忠誠

ところでフランスにおける中世の衰退期は王と領主との双務契約が破綻することで引き起こされた。王が免税権などの権力を領主たちからむしり取ろうとしたからであり、そして領主たちがそれに頑強に反対したからでした。現実には中央集権制と分権制との国家体制の根本的な対立であり、中世の時代基盤の是非が問われた。

一方、江戸時代においても中世に異変が起こった。武家の双務契約が機能しなくなったからです。それは社会に一定の法治主義が成立し、世界で類を見ない武力闘争の消えた、平和な世が実現していたからです。武士の刀はさび付いていた。中世の安全保障は武力の双務契約によるのではなく、法治主義によるものと変わっていた。それはそれで素晴らしいことです、そしてそのため貨幣経済は発達して資本が武力に変わり世の中を動かすようになっていた。まるで現代社会のようです。

江戸時代、武力はきっぱりと否定され、秩序は法によって形成された。双務契約の破綻に直面した武士たちは当然、抵抗した。しかし、だからといってそんな双務契約を復活させようとしてもそれはできません。つまり武士の義務である戦役を履行するためには戦が必要です、しかしそのためにわざわざ平和な世の中に新しい戦争を引き起こすことなどできようはずがありません。それは狂人の仕業です。大名も武士も従って現実の前に膝を屈し、その代り武士の義務を何とか果たすべく戦役に代わる代替案をひねり出した。

実に奇妙な中世です。徳川も大名たちもそして武士も双務契約の破綻に目をつむり、その代り参勤交代に精を出し無私の精神論を唱え続けることになった。血で血を洗う戦役は上品な軍事パレードや机上の精神論へとその姿を変えた。言わば現実の矛盾は巧みに取り繕われたといえます。さらに本来必要とは思えない事細かな所作や形式張った行動が武家社会に溢れ、彼らの身分制を強固にし、戦役の欠けた武家社会にタガをはめた、そして様々な精神論も又現実の矛盾をそつなく覆い隠した。

剣術や弓術も又、徳川の平和ゆえに本来の目的を失った。江戸時代では刀や弓で敵を討つ、相手を殺すという実戦が幕府によって禁じられていたからです。それでも武士たちは刀や弓を手放しません。そのため武に生きようとする武士たちは剣術や弓術の新しい目的を見出さざるを得なくなる。参勤交代や無私の精神論がひねり出されたように剣術や弓術も独特の変身を遂げます。

刀や弓の武術の目的は敵を討つことではなく、武術そのものを究める、そしてそのために自らの精神を鍛えるという人間形成のためへと変わった。それは新たな精神論である武士道に直結する。人間を殺す武術がいわばスポーツとしての剣術や高度な生き方を模索する手段となった。剣道や弓道です。剣術は真剣ではない、竹刀による仮想の殺人競技となり、本来の戦では通用しないであろう多くの机上の流派を生み出した。

そして剣術は人間形成のための手段としても用いられる。武術を磨くことと人間形成とが重なりました。それは世界の中で日本でしかみられない、極めて特殊なものです。そしてこれも又矛盾した現実を回避して精神論の中に潜り込んだ結果であったが、それでも武術と人間形成とが合体するという行為はとてもクールなものでした。

こうした特殊な武術観は古代国においては無論のこと、中世西欧にも現れなかった。フランス、ドイツ、イングランドにおいて剣術は剣術以外の何物でもなく、弓術は弓術以外の何物でもない。何故なら、そこでは数世紀に渡り戦乱が相次いで武術は人殺しの手段として立派に本来の役目を果たし続けていたからです。現実は精神論の中に絡めとられることはなかった。武術と人間形成とは全く次元の異なる話であった。ですから西欧では過剰な形式主義や異様な精神主義は現れず、現実主義と実力主義は健やかに成長した。

徳川の平和令は武家の双務契約の破綻や剣術の目的の変更以外においても混乱をもたらした。それは武士、農民、町人のすべての人々に及ぶものでした。徳川の平和令は武力の否定そして法の順守によって達成されるものです。特に武力の否定という幕府の基本方針は不変で、社会に対し圧倒的な圧力を伴っていた。それは徳川の指示というよりも徳川の厳命であった。そして残酷で悲惨な戦国時代を体験してきた多くの人々も平和を求める徳川の政策に共鳴し、それに従った。

その結果、極論が起きる。徳川の役人も人々も武力による混乱だけではなく社会からあらゆるもめごとを排除し、平穏な社会を維持すべきと考えるようになる。もめごとの抑制、特にもめごと自体の隠蔽が一般的に行われた。臭いものに蓋です。もめごとの原因を突き止め、解決を図るよりももめごと自体を徳川の眼から、そして周囲から覆い隠してしまう。それは世の中からあらゆる<角>を削り取り、世の中をのっぺらぼうにした。

天下泰平という大義名分を前にして徳川の平和は徹底されそして行き過ぎたものとなっていた。社会のあらゆる階層において平穏で安全な状況が最優先され、不穏なものだけではなく、突出したもの、新しいもの、破調なもの、個性的なもの、あるいは真実さえもが否定された。私よりも公であった、変化よりも既存の維持であった、そして内実よりも形式であった。それは武家の無私の精神論の庶民版といえます。

この点、徳川の人治は江戸の社会を決定つけた。そして今日、世界的に定評のある日本の平穏さや安全さはこの江戸時代の特性を引き継いだものといえるでしょう。それは同時に江戸時代の<私よりも公>を強く優先する傾向が今日の日本人にも相当程度、引き継がれていることを示しているのではないでしょうか。滅私奉公に理解を示し、自制や自粛を得意とする国民が出来上がった。

天下泰平は素晴らしい。それでも江戸時代の統治は法治だけではなく(身分制も含めて)人治も存在し続けた。それは人治と法治とが共存した中世の限界を示すものです。そして徳川の平和は敬老思想や形式主義、精神論と共にこの表面だけを取り繕う守旧の傾向に拍車をかけた。室町時代や戦国時代に横溢した現実主義や実力主義はしばしその影を潜めた。かつての下剋上の運動が持っていた現実直視や変革への熱意、自由闊達な行動はむしろ遠ざけられた。ですから2世紀以上に及ぶ長い平和は確かに創出されましたが、それは日本人がかつて持っていた突破や開発や躍動の精神の減退と引き換えであった。実に歴史とは環境です。

双務契約の破綻や行き過ぎた平和令は人々の生活を制約し、不自由なものにしたが、江戸時代は依然として中世でした。徳川は分権制を布き続け、仲間の大名たちと国家権力を仲よく分け合っていた。しかし中央集権化は求められることなく、誰も体制の変革など思いもしません。変化というものはあってはならないものでした。そして頼朝以来の主従政治も途切れることなく実施され続けていた。ここでは中世の時代基盤にいささかの狂いもない。ですから江戸時代は本来の双務契約を喪失した、しかし仮初の双務契約で装われた怪異な風貌を持つ中世といえるでしょう。

武士の名誉のために言っておくべきでしょうが、主君に忠誠を尽くしたい、そして双務契約を維持したい、という江戸時代の武士の想いは真剣なものであったと考えられることです。それは体裁を取り繕うことでもなくいいわけでもなかった。というのは幕末動乱において武士の多くはまるで鎌倉時代や戦国時代の武士のように忠義に生きたからです。彼らは命を懸けて主君のために敵と戦いました、それが開国のためであれ攘夷のためであれ。江戸時代、武家の双務契約は消滅していたのではなく、一時やむなく停止を強いられていたといえます。動乱こそ武士の出番でした。その時、実体のない無私の精神論はすっかり消えて、武家の双務契約と武士の忠義は見事に復活していた。

そしてもう一つの問題は美化された忠誠についてです。江戸時代の美化された忠誠は明治時代の人々に引き継がれた。そして今の日本人にもある程度受け継がれている。忠誠心は決して悪いものではない。それは戦地においてだけではなく人々が様々な組織活動を送る上で大切なものです。但し美化された、非現実の、過度の忠誠心は問題です。

美化された忠誠心、無私の精神はあくまでも無私の<精神>です。それは現実ではありません。江戸時代の武士は勿論のこと、鎌倉時代の武士も戦国時代の武士も無私となることはなかった。忠義を大切に思うことは大事です、しかし忠義に支配されてしまってはいけません。

歴史学者や多くの人々は江戸時代の異様な武士を中世日本の典型的な武士ととらえています。そして彼らは江戸時代の武士と西欧の騎士とを比較する。武士は主君に一生尽くし続け、それ故自主性を欠いた、奴隷のような存在としてあげつらい、一方騎士は領主と対等に契約する自立した存在として称揚する。歴史学者は自虐者です。歴史学者は江戸時代の武士を騎士と比較するというありえないことを平気でする。もし武士と騎士とを比較するのなら坂東武士や戦国武士を引き合いに出さなければ理屈に合いません。江戸時代の武士は例外的なのですから。

中世西欧には江戸時代のような長い平和な時代はありませんでした。西欧では大げさに言えば毎年、どこかで内乱や対外戦争が起きていた。それは日本の室町時代あるいは戦国時代のようでした。ですから騎士は絶えず臨戦態勢を取り、彼らの双務契約は正常に機能していた。

こうした騎士と武士の誤った対比、中世西欧と中世日本の安直な対比は今も一般的に行われています。彼らはそれぞれの時代背景や武士の双務契約について何の考慮も払っていない。その結果、誤った武士像や中世像を作り上げて、本来の姿を傷つけている。

Chapter 07
村人のこと

村人と領主

平安時代、荘園を所有する者は皇族や貴族や寺社などでした。多くは都に住んでいます。彼らは荘園領主と呼ばれていましたが、自分で荘園を管理しません。ですから特別の管理人を頼み、荘園の管理や治安維持や徴税の仕事を任せていました。

14世紀、荘園領主は荘園の管理を農民に任せた。正確に言えば村の農民全員に一括して任せた。それは村単位の請負であり地下請と呼ばれる制度でした。その頃村落は単なる集落ではなく、農民たちの自治組織として成立し始めていました。農民たちは荘園を耕作する仲間と一緒に定住を始め、彼ら独自の共同体を構築した。そこには勿論、特権者はいません。彼らはみな対等であり人の上に立たず、人を支配せず、その代わり村の法を定めそれを村の支配者とした。村人は村法に従い、秩序とささやかな自由を手に入れた。

それは農民の自立でした。こうした村落の形成が農民たちの地下請を可能とした。荘園領主は彼らを認め荘園の管理を任せた。彼らは管理人による管理から脱却して、自らが自主的に荘園を管理し農耕するようになった。納税もまた彼らが責任をもって行った。

平安時代、貴族の荘園の管理人は荘官と呼ばれた面従腹背の徒です。彼らは荘園の所有者である貴族に表面上、おとなしく仕え管理を行っていますが実際は集めた税の多くを私物化していました。鎌倉時代になると新しい管理人として地頭が加わります。強面の管理人です。南北朝期には代官(武士や金貸しや寺僧など)も私的な徴税人として現れます。そして室町時代、最後の管理人として守護が登場する。過去500年間、管理人はいろいろ代わりましたが程度の差はあれ納税をごまかして自分の財産を築いていった。荘園の管理がこうした古代式である限り汚職は決してなくなりません。それは例え管理者が農民となった時でも変わりません。

荘園管理が古代式から中世式に変わると汚職は激減します。それは封建領主と農民との間に双務契約が結ばれるからです。契約当事者は互いに契約相手のために誠実に働きます、例えば領主が武力を発揮し村の安全を図り農業を振興する、それは納税を確かなものにします、一方農民たちも領主に税(と兵)を与え彼の生存を支える。それは領主の統治力を高め、村はしっかり守られる。契約義務を果たさないこと、不誠実であることは結局、自分の首を絞めることになる。汚職は全く割に合いません。双務契約を最初に農民たちと結んだ者は戦国大名でした。農民たちと彼は運命共同体を形成し、領国の維持と発展に尽くした。

その点、貴族は農民を保護しなかった。貴族は村の安全に見向きもしない、一方的に農民に命令し税をむしりとるだけです。実に古代的です。農民たちはそれでも最初の内は貴族に納税するかもしれない、しかしやがて貴族を無視して納税しなくなるでしょう。それは火を見るより明らかです。農民は最早、貴族の奴隷ではありません、農民は自立しています、だからこそ自分たちの村を守る強い意志を持ち、村の安全を保障する相手を求めている。当然のことながら農民は命令をするだけの貴族を相手にせず見捨てた。貴族は契約社会で生きる資格を持っていません。貴族の没落は歴史の必然でした。

しかし室町時代は荘園制度が消滅する時代でもありました。守護が荘園を全面的に横領したからです。そのため荘園領主である皇族や貴族は収入の道を断たれた。平安時代から続いた荘園制度の終焉であり、そして古代王朝の最後であった。そのため農民の取引先も変わる。新しい納税先は守護大名でした。荘園を乗っ取った男です。守護は荘園領主に倣い、農地の管理を農民に託した。

当時は混乱の時代です。戦国時代もすぐに始まる。村の周りでは武士たちがすでに戦を繰り広げていた。土地の分捕り合いです。武士だけではなく野盗、強盗、泥棒、人さらいもいた。けれども最早、村には一人の管理人もいません。村は裸同然であった。村の安全は村人自身で守るしかない。村人は槍や鉄砲を備え、武士を数人雇った。しかし近隣の大名たちの戦に巻き込まれては村の自己防衛など何の役にも立たなかった。

近隣の国から襲いかかる侵入者たちは獰猛であった。彼ら武士は城を攻撃するばかりではなく、必ず村をも襲った。村人は殺され、女は凌辱され、子供はさらわれ、蓄えは奪われ、家屋は放火され、そして田畑は荒らされた。彼らの自衛には限りがあった。

農民は領主の保護を受けざるを得なかった。武士の襲来に対しては武士の武力が必要でした。彼らは近隣の領主と双務契約を結びました。この当時、一匹狼で生き延びようとする村落はありません。それは不可能なことですから。領主と保護を結んでいない村は野盗や武士たちの格好の餌食となる。領主の報復を受けることがないのなら侵入者たちは安心してその村を襲う。ですからどの村も近隣の領主と契約を結んだのです。

領主もまた農民を必要とした。農民の納税が領主の領国経営を支えるからです。彼らの納税が彼の領国経営や築城や遠征などの費用を賄う。農民は天下の大本です。納税は領主の生命線です。そして確かな納税は村の安全が保障されることで成り立つ。従って領主は徴税の権利を得ることと引き換えに村を守る義務を負うことになった。

そして農民たちは現実的に生きた。例えば、国境にある村は生き残りをかけて強かに動いた。彼らは自ら彼らの領主を選ぶ。戦国時代、彼らは村の左にある領国と手を結ぶか、それとも右の領国と一緒になるかという決断を自ら下した。

もし左の領国が右よりも大きく、戦に強ければ村人たちは左の領主と契約する、そして左の領国に納税し、時には幾人かの若い村人を国境の見張り役として提供する。その代わり領主にはしっかり村を守ってもらう。そして数年後、その形勢が逆転し右の領国が強大となれば村人たちは左の領主との契約を破棄して、右と結ぶ。それは実に現実的な生き方です。すべては生き残るため、村の安全を図るためです。村人たちは自立している、領主の奴隷ではありません。情勢判断を誤れば村は消滅するかもしれない。ですから彼らは現実を真剣に分析し、現実に即して生きた。それは今日の世界の国々が行っている合従連衡と同じです。

江戸時代、地下請は村請制と呼び名が変わった。制度の中身は同じです。村単位の納税は領主にとってありがたいものです。どんな場合であっても村が納税を保障してくれるからです。例えば農家Aの主人が病気をしてしまい納税できなくなっても村の名主や有力農民がそれを肩代わりして穴を埋めてくれる。税は満額、領主の下に集まる。

しかし肩代わりは勿論、寄付ではない。農家Aの借金となる。それは当然、貸主に返却せねばいけない。もし返却できないなら例えば農家Aは村の法に従い一家で村から逃亡する。

村落共同体の法治と自治

封建領主は村の新しい管理者ともいえます。しかし彼は村の支配者ではない。村と契約する契約相手です。ですから領主は村人たちの自治を認め、村内部のことに介入しません。こうして村は村落共同体として明確に自立した。尚、村には名主がいました、彼は領主に任命された者ですが、村の支配者ではありません。彼は村人たちの世話役であり、彼らの意見や主張をまとめる村の代表者であり、村人たちと領主を繋ぐ仲介人です。

村人は農耕や納税に限らず村内部のことは基本的に村内部で解決した。領主へ相談すること、指示を仰ぐこともあるがそれは内部で解決できない特別のあるいは緊急の場合に限る。領主は村民の自治を認め、村内部の問題に立ち入らない。それは一種の分権制です。ですから村の中で農民たちは自由を得た。それは村内部におけるささやかな自由であったが、かけがえのないものでした。それは古代人の味わうことのなかった楽しみです。

村は家族集団ではなく他家同士の集団です。それは古代の共同体ではなく、中世の共同体です。ですからそこには特権階級はいません、村人(家長)はみな対等です。村人は人が人を支配する人治の社会から解放されている。その代り彼らは村の法をつくり、それを村の支配者として定めそれに従う、その点、村は小さな法治集団です。中世の村は日本における主権在民の最初の姿でした。

(但し、中世日本においても中世西欧においても家族の家長は絶対者であり、妻や子供たちを一方的に支配していた。基本的人権に関してはまだ古代的であり解決されていません。基本的人権は現代化革命において確立しましたが、その思想が家族の中に浸透するまで、つまり家長が心を入れ替えるまではかなりの時間を要した。)

村人は共同体に生きるための順法精神を身につけていく。法を守ることは村の秩序を維持し、平穏で安全な生活を保障するからです。前述の農家Aは借金を返せなければ村から逃げ出しますがそれは村の法に従うからです。村の秩序はこうした厳しさから成立するものでした。中世西欧では村だけではなく都市もまた法の支配する共同体でした。

村人自身が村を管理する。荘官や地頭や守護は最早、村の管理人ではありません。そして村人による管理手法は呪術や武力や権力ではない。村人は村のいろいろな問題を彼らの合議によって解決した。話し合いです。彼らはそれぞれの意見を主張し合った、それは大げさに言えば言論の自由です。そして合議に至らない場合は多数派の意見が採用された。それは民主政治の原型でした。

同時に村人は自治の精神を身につけた。村の自立を維持し、村人の結束を守り続けるため自分の意見を主張するだけではなく、場合によっては自分の意見を引っ込めるという自己抑制の力をも身につける。それは忍従とは違う忍耐という新しい精神でした。それは協調の精神とも寛容の精神ともいえるものです。すなわち村落共同体を生きるための公(おおやけ)の精神であり村人は自律を学んだ。

農民の人口は当時、日本の全人口の8割といわれていますから、日本人の大多数が自治を経験し、自治能力を高めていったことになる。当時の日本のあちこちで農民たちは領主との納税義務を果たすための誠実さや責任感を育み、そして村を運営するための自治の精神や順法精神を涵養した。

自治は双務契約と共に日本人に誠実さや順法精神や忍耐心を叩き込んでいった。現代の日本が法治国家であり、その上に民主主義と資本主義が正常に機能していることはまさに中世を通過し、その精神が涵養されてきたからに他ならない。文字通り中世は現代を準備した。中世の精神は今日の日本の企業統治、社会統治、国家統治をしっかり支えています。

明治維新において国民国家が誕生し、憲法が制定され法治主義が布かれた。日本人はその時問題もなく法治を理解し、即実践できた。何故なら日本人はすでに中世の村落自治を経験し、法の支配の下で生き、順法精神や自律の精神を身につけていたからです。彼らは当然のごとく法に従い秩序を形成し、しかし虚偽や汚職にまみれることはなかった。

明治維新は従って長州や薩摩の下級武士だけで成し遂げられたものではなく一般の日本人(全国の村人たち)の協力によってはじめて成立したものといえます。いくら元武士たちが現代式の議会や裁判所を設けても国民が議会や裁判所の存在理由や機能を理解できないならば、そして自律や順法の精神を持っていなければ現代化は一向に進みません。それは絵に描いた餅です。

国家の現代化とは革命分子の活躍だけでなく、国民が中世の精神を身につけていることが絶対に必要なことなのです。それは厳然たる歴史の真実です。日本や西欧諸国が現代化を果たすことができたのは中世を通過し、国民がその精神を身につけていたからです。

一方、古代の共同体には自治はありません。王または王の代理人が村を支配していますから村人に自由はなかった。彼らに村を運営する自治は認められていません。人が人を支配する体制に対し古代の村人は忍従するばかりです。そこには厳しさを伴う自律の生き方は誕生しない。

命令に服従することに馴れてしまった古代人は合議という民主的な手続きに無縁となります。彼らは自分の意見を持とうとはしなくなる、意見を持っていてもそれはしばしば王によって一方的に潰されるからです。従って自分の意見をあえて引っ込めるという忍耐の精神も学べません。公的な生き方を学ぶ場がありませんから自律の精神も育たない。

様々な主張が自由に飛び交う真の共同体に生きるようになった時、古代人は合意形成に苦労するに違いない、雑多な意見を皆で一つにとりまとめることができないかもしれません。共同体全体を考慮し検討することは不得意で、一部だけ、自分の都合だけに固執し続けるからです。忍耐や寛容の精神に乏しい。ですから古代の硬直した精神は民主政治の運営を困難なものにする。

勿論、こうした古代の村に村法は存在しない。例え村法が現れたとしてもそれは王の命令の前では無いに等しい。自律の生き方が許されない世界で順法精神が育つはずがありません。命令には従順に従うが、法や契約に重きを置かず、権力や情実が優先する。彼らは特別の罪悪感をもたない

共同体の変遷は歴史の段階的な発展を正確に描いています。特に古代の家族共同体と中世の村落共同体(や都市共同体)との違いは決定的です。その違いから中世の重要さが理解されますし、双務契約の開発や自治の誕生が人類の発展にとっていかに必要なものであったかも理解されます。現代を迎え領国の垣根は取り払われて村や都市は連続し、一体化して一つの大きな共同体、すなわち国家共同体に転じる。

尚、誤解のないように一言付け加えておきます。私がこの論文で主張していることは人間の能力に差はない、しかし人間の精神に差があるということです。人間の能力、つまり体力や知力や感性は古代人であろうと、中世人であろうと、現代人であろうと何の変りもありません。みな同じようなものです。

しかし違いは精神です。特に共同体(社会や国家)を形成し、運営するための精神に差があるということです。中世を通過した国の国民は誠実さや法を守り、約束を果たす強い精神力や他人を信用する力を持っている、しかし通過しなかった国民はその精神に乏しい、ということです。その差が社会と国家を決定する。その結果、社会の質、国の質に大きな差が生まれた。民主国家を樹立する国と一方、いつまでも古代国にとどまっている国と、二つに明確に分かれます。そしてその精神は中世が人類に贈った宝物でありました。それが中世の真の価値です。

Chapter 08
明治維新

中世化革命と現代化革命

現代化革命は四つの基本要素からなります。一つはクーデター、一つは憲法、一つは中世の精神、そして一つは現代の諸々の設備や規約です。日本も西欧諸国もこの四つを揃えることで現代化革命を成就した。

まず、クーデターです。日本人は日本史上、三つのクーデターを断行してきた。一つは中世化革命です。それは12世紀、頼朝を中心とする武士たちによって行われた古代王朝に対するクーデターです。それは古代王による専制政治を封じた。もうひとつのクーデターは信長などの戦国武将たちによる寺社に対する攻撃でありその勢力を全面的に排斥するものでした。それは政治と宗教とを切り離し、宗教の政治への介入を禁じた。

三つ目のクーデターは幕末、下級武士たちが断行した徳川家と大名家の追放です。それは中世の支配者である封建領主を日本から一掃した。日本は日本史上、初めて人治の排除された国家となった。

国民の意志を打ち砕く国王も封建領主も独裁政党も軍司令官も宗教指導者も存在しません。支配者が一人もいないのです。それは今日でさえ、世界の多くの国々にとって達成しがたいことです。すなわちクーデターの役割は特権階級の排除です。その意味で日本はその時、無法の地となった。

それでは特権階級のいなくなった日本を統治する者は誰かといえばそれは日本国民であり、その代表者たちである職業政治家です。そして政治家を支配するものが憲法です。憲法が新しい法であり、日本の真の支配者です。憲法がなければ国民の意志は無視され政治家は独裁者に転じる。憲法の制定は法治の誕生を促すものでした。憲法(新しい盟主)が現代化革命に必要な二つ目の条件です。

さて現代化革命に必要とされるものはクーデターと憲法の次に中世の精神が挙げられます。これは必須の条件です。日本人は中世の厳しい精神を身につけていた。それは双務契約の維持そして村落共同体の自治を通して得られる貴重な精神です。それは誠実さや忍耐心や順法精神などです。中世の村落は特権階級のいない共同体でした。そこでは村の秩序を形成するために法を唯一の支配者と認め、村人はそれに従った。それはささやかでしたが法治の出現です。彼らは数世紀に渡る自治を通して法治に馴れ親しんでいく。そしてそのために必要な中世の精神を育んでいった。

幕末、中世の精神は大活躍をします。村落に特権階級はいませんでしたが今、日本全体からも特権階級がいなくなった。武士が彼らを強引に追放したからです。日本全土が村落と同じ支配者不在の状況になった。そしてほどなく元武士たちは憲法を制定した。憲法は村人にとって村法に相当するものです。彼らは憲法の存在理由を理解でき、それを当たり前のように順守する。

すなわちほとんどすべての日本人は憲法や諸々の法律を認め、いとも簡単に其れに従うことができた。それは村落で昨日までやっていたことの続きに過ぎない。法を破り、虚偽や汚職にまみれることなく、秩序ある明治の代は問題もなく築かれた。

中世の精神は現代化にとって必須なものでした。クーデターが成功して国民が主権を握っても国民が中世の精神を身につけていなければ現代化は達成されません。革命分子が努力して憲法を制定してみても国民が無法者たちであれば憲法は絵に描いた餅でしかない。

現代化革命にとって必要な四つ目は西欧の開発した新しい思想や産業でした。フランス革命や名誉革命や産業革命や財政革命から新しく生まれたものです。議会制民主主義、現代的な行政組織、機械工業、資本主義などです。それらは国を富ませ、民主化し、そして時には軍事大国にする。

ここでも中世の精神はその力を発揮する。すなわち国民がこの精神を身につけているから約束や契約は固く維持され、相互信頼に満ちた、堅固で、高次で効率の良い社会が実現する。その上で民主主義や行政組織や企業は正常に機能するからです。誠実さや責任感や忍耐心は特に産業を発展させ国力を高めた。

現代化を成立させるものは以上の四つの事柄です。どれ一つ欠けても現代化は成立しがたい。古代王が支配し続けている国、あるいは独裁政党や軍司令官や宗教人が独裁政治を行っている国には現代化は起こりません。ロシアや中国の国民は1000年以上に渡り継続した専制政治に国民がすっかり馴れていてクーデターを起こしません。

一方、インドや韓国にも真のクーデターは起きなかった。彼らの古代国はインド国民や韓国国民の自主的なクーデターにより倒されたのではなく、イギリスや日本などの帝国主義国の干渉の内に崩壊した。そして彼らの植民地となり、その後独立した。今日では外国から議会制や機械工業を導入して現代国、民主国へと進んでいる。

これらの国の問題は中世を通過してこなかったということです。彼らの古代国は滅びましたが、だからといってそこに中世国が出現したわけではなかった。中世化革命は起きなかった。封建領主も武士も誕生しない。契約社会は成立せず、人々の契約義務の誠実な履行や村落の自治はなかった。あるいは人々が封建領主に向かい、抵抗権を振るうこともなかった。従って彼らは中世の精神を身につけることはなく、古代の生き方を引きずったまま現代国へと移行した。

インドや韓国は中世を通過することなく古代から一足飛びに現代へと進んだ。それは不規則な歴史の推移でした。そのため今日、これらの国では社会の外見は現代風に装われて、しかしその中身は依然として家族主義や縁故主義や権威主義などの古代の生き方が幅を利かせ、法や契約は片隅に追いやられている。そして日常的に虚偽や汚職がはびこる。法治国家とはとても呼べない。ですから彼らの民主主義や資本主義の姿は正常なものとは言いにくい。

これらの四つの条件を備えた国は世界の中で日本と西欧諸国だけでした。まさしく中世を通過した国々です。そして西欧人が建国したアメリカやカナダやオーストラリアなどです。アメリカはイギリスから独立することで支配者からの独立を果たした。そしてこの現代化を挟んで世界の国々は二つに分かれることになる。先進国とそうでない国と。

日本はアジア、アフリカで唯一現代化革命を成し遂げた国です。日本は先進国となり、アジアアフリカにおいて異色の国となった。アジア、アフリカの国々は疑問に思うはずです。西欧の文化、文明を取り入れようとした国は世界にたくさんある、にもかかわらず何故、日本だけがそれに成功し西欧と同じ先進国となっているのか、と。そして彼らはその原因を探ろうとします。例えばその原因は日本人が勤勉だから、日本人は物まねがうまいから、そして日本人は礼儀正しいから、など。結局のところ、決定的な答えは見つかりません。

日本も西欧諸国も上記の四つの条件を満たすことで現代化を成し遂げた。この歴史的事実を知ることは世界の人々に新たな問題を課すことになる。今まではクーデターを起こし、憲法や機械工業を導入すればその国の現代化は成立するものと考えられていた。しかし現実は違った。ロシアや中国は言うに及ばず、国民が主権を獲得し、新しい思想、制度、産業を導入した国、例えばインド、トルコ、韓国などはそれでも現代化を果たすことができずにいる。それらは今も先進国とは呼ばれない。

要は中世の精神です。それに尽きる。それが唯一法治主義を国内に確立するものです。しかし残念ながらこれらの国にはそれが乏しい。それはこれらの国にとって死活的な問題といえます。それではこれらの国民が法治主義を確立するにはどうしたらよいのでしょう。

現代の安全保障と社会保障

19世紀後半、明治維新は断行され、領国は一体化し国家になり、領民も一体化し国民になる。国民国家の誕生でした。中世の双務契約は現代を迎えてその姿を変えます。現代には現代の双務契約が現れる。

現代が始まり、そして新しい双務契約が作られた。それは国家と国民の間の契約です。国家が国民を保護し、国民も国家を保護する。国家が国民の生命、財産、尊厳を保護し、一方、国民は国家に対し納税と勤労と教育の義務を負う。中世の双務契約がより高次なもの、より普遍的なものに変化しました。

国家とは別な言い方をすればそれは憲法です。憲法は人々の上に立ち、人々を支配する。憲法は古代の専制君主に代わるもの、そして中世の封建領主に代わるものです。新しく現れた現代の盟主です。

憲法が支配者であるとすると政治を行う職業政治家が憲法の代官といえます。彼らは憲法に基ついて政治を行う。ですから人々は基本的に憲法に支配されているといえます。その意味で憲法を現代の支配者と呼んでいます。もっとも憲法を作るものは日本国民ですから国民が最高の主権者であることは間違いのないことですが。

古代や中世は人が人を支配する人治主義でした、古代王は専制的に人々を支配した。中世王の封建領主は双務契約に基付いて人々を認める支配者であったが、財政悪化などの背に腹は代えられない状況に陥るとその態度を急変させて権力を乱用し農民に重税をかけ、彼らの生活を破壊した。

一方、憲法は常に冷静です、どんな状況でも権力を乱用することなく人々の財産を奪うこともない。日本の憲法は安全保障と社会保障の二つを国民に約束しています。安全保障は二種類あります。一つは国内用の安全保障、もう一つは対外的な安全保障です。前者は法治主義であり、法の支配によるものです。法に従って生活する限り国民の生命、財産、尊厳は保護されます。ですから言い換えれば法治国家は国民が順法精神を身につけていることで成立します。

もう一つの安全保障は対外的なものであり、武力主義によって構築されます。国軍が国防の役目を負い、外国からの武力攻撃から人々の生命や財産を守ることです。それは冷酷な現実です。世界は民主国家だけではない。力が弱ければ飲み込まれる、そんな無法の世界が今も広がっている。ロシアや中国や中東諸国のような国は今も話し合いによる問題解決の手法をとることなく、当然のように他国を武力や謀略で脅かす。このような国々に対しては武力をもって対抗するしか他に方法がありません。話し合いが行われず、国際法を守ろうとしないのですから。特に日本の周りは古代国ばかりです。

憲法は人々に安全保障だけではなく、社会保障をも約束する。社会保障は古代には勿論、中世にもなかったものです。中世では双務契約の維持を通じて人々の安全は保障されていましたが、人々の生活を保障する社会制度はありませんでした。例えあったとしてもそれは領主の博愛の精神から生まれた施しであり、そして一時的なもの、制限的なものでした。

例えば天候不順から作物は枯れて、村は飢饉に襲われる。農民たちは農具さえ質入れして飢えをしのぐ。多くの領主は貧窮に喘ぐ農民たちに様々な手厚い救いの手を差し伸べた。税の減免は当然のように農民に伝えられた。ですから領主自身も税収の急減を覚悟し、財政悪化に苦しむことになるであろうと予想しながらも村の保護に精力を注ぎ続けた。哀れみからだけではない、彼の生命線を守るためでもあった。

それは一種の社会保障です。けれども現代の社会保障のような恒常的で、人々すべてに及ぶものではなかった。あくまでも緊急時に限ります。それは中世の限界を示す。だからといって領主を責めることはできません、それが中世なのですから。現代では生活保護、健康保険、年金制度、失業保険、失業対策など様々な充実した社会制度が整備されて人々に安心を与えています。従って安全と安心の両方を保障する現代の憲法は人類史上、最高の支配者といえるでしょう。

古代の安全保障は王への服従でした。中世の安全保障は封建領主との双務契約でした。そして現代の安全保障は憲法との双務契約です。人々はその時代、その時代の支配者といろいろな形で付き合ってきた。生き延びるため、よりよく生き延びるためにです。そこに人々の最も安全な生き方が選択された。そしてそれが時代の骨格を形成し、その上に社会制度や組織や産業や文化が創造されてきた。安全保障の形は歴史区分を決定する。

ここにも歴史の段階的な発展が認められます。人々が安全や安心の制度を一歩ずつ築いてきた軌跡です。そしてその軌跡から中世は古代と現代の中間に存在していることがわかります。安全保障の原型は中世に成立し、それが現代化されさらに高次なものに格上げされた。そして一時的で制限的であった中世の社会保障が恒常的、普遍的なものへと改良された。中世の保護は引き継がれ、改革されることで現代の保護へと完成されていったのです。

一つ、付け加えておきます。現代化が即民主化であるとは言えない、ということです。中世の終わったその翌日から民主政治が始まったのではない。明治維新が1年、2年で日本を民主国に変えたというわけではありません。それはあり得ないことです。いわば歴史は過渡期の連続です。中世の香りは明治の時代ばかりではなく、大正の世にも残っていました。中世の非民主的な事柄は昭和の時代にさえ存在した。

日本だけではなく、フランスもドイツもイギリスも現代化革命と実際の民主化との間にはそれなりの時間のずれが存在しました。民主政治の確立にはどの国も苦労した、少なくとも100年以上はかかっています。その期間はいわば現代という時代の誕生期でした。

現代の統治が古代の統治や中世の統治に比べより優れたものであることは確かです。それは人々の生存や生活が国によってしっかり保障されている統治だからです、それ故人々は自分の夢を自由に追求できる。(法を犯さない限り)誰にも、何にも妨害されることなく追求できる。それは特権階級が存在し、人々の自由を奪いあるいは制約した古代や中世では考えられないことです。

とはいっても現代の統治が完璧であるというわけでもない。今日の先進国はいずれも政治、経済、社会の領域でそれぞれの問題を抱え、その解決に向けて試行錯誤を重ねています。民主政治も資本主義も発展途上です。工夫の余地はいくらでもある。今は現代の時代基盤が据えられてまだ1世紀から2世紀くらいしかたっていません。現代の誕生期がようやく過ぎた頃でしょうか。まだまだこれからです。そして現代も今から数世紀後に、衰退期が訪れるかもしれない。その時、現代の時代基盤に代わる新しい時代基盤が誕生するかもしれません。それもまた人類の新しい歴史の始まりです。

Chapter 09
西欧の中世

カペー王朝の誕生

中世フランスの誕生についてお話します。中世日本と中世フランスとを比較することで中世という時代がより鮮明に見えてくるであろうと思われます。

5世紀、古代ローマ帝国の滅亡後、西欧に現れた国は新しい古代国でした。その古代国はフランク王国と呼ばれた。それは今のフランス、ドイツ、北イタリアを含む広大な王国です。フランク王国は中央集権制を国家体制としていた。王は地方官を地方に派遣し、行政、司法、軍事警察、徴税などを専制的に行っていた。そこでは封建領主や騎士はまだ誕生していません、そして双務契約も開発されていません。西欧の古代はまだ続いていました。

9世紀、フランク王国は三つに分裂する。大まかにいえば一つは東フランク王国と呼ばれ、今のドイツにあたる、一つは西フランク王国と呼ばれ、今のフランスに相当、そして残りの一つはイタリアにあたる国に三分割され、王の三人の子供がそれぞれを継いだ。いずれも古代国であり続けた。

10世紀、三つの王国はそろって滅亡する。それぞれ王族内部の紛争が起き、そして何よりも後継者が一人もいない状況となり滅亡につながった。東フランク王国の滅亡の後に生まれた国は神聖ロ-マ帝国(後のドイツ)であり、そして西フランク王国の後に誕生した国がカペー王国(後のフランス)でした。

神聖ローマ帝国もカペー王国も西欧史上、初めて誕生した中世国です。そこには封建領主が城を築き、騎士と双務契約を交わしていた。西フランク王国の崩壊により一時、(フランス)国内は無政府状態に陥っていた。その時、西フランク王国の地方官は役職を失い途方に暮れていたが、その中の野心を持つ地方官たちは今まで統治してきた地を自らが支配するようになっていた。地方官が封建領主に変身します。さらに古代国の兵士であった者や地方の有力者も小領主に成長していった。彼らはみな武装集団であり、無法の地で自分の土地や財産を守るために武装し領国を形成していた。フランス国内にはこうした封建領主が林立し勢力を競い合っていた。

西フランク王国は自ら崩壊した。そのため王国の地方官は封建領主へと進むことに抵抗はなかった。むしろ雇用主を失った立場の者としてそうせざるを得なかった。それは自然な成り行きでした。一方、日本では古代国の地方官はそのまま封建領主へと移行しなかった。というのは日本の古代王朝は弱体化していたもののすぐに消滅しなかったからです。清盛のクーデターも頼朝のクーデターも中途半端に終わった。そのため地方官は地方官としての仕事を続けた。

ですから日本で封建領主となった者は任期途中の地方官ではなく、任期を終了しその後都へ帰らずその地に根付いた下級貴族や軍事貴族などでした。彼らは開発領主となって自立し、それから封建領主へと変身していった。

西フランク王国の崩壊後のフランスは平安末期の関東の地に似ていた。盟主と法と秩序の消えた世界です。そのため封建領主たちはフランスの新しい盟主を求めた。今の混乱した状態を続けるわけにはいきません。しかし彼らは武力で争わなかった。新しい盟主を選ぶため彼らは選挙を行った。彼らの間に暗黙の相互承認が働いていたのでしょう。というのは彼らの多くはもともと顔見知りで西フランク王国の同じ役人であったのですから。

聖職者と国内の有力封建領主とは一堂に集まり、フランスの新しい盟主を決めるために相談会を開いた。有力封建領主たち自身が新しい王の候補者であった。満場一致で選ばれた者は封建領主カペー家の当首ユーグでした。

ユーグ カペー
ユーグ カペー 940頃ー996
中世フランスの創始者 カペー朝の初代国王

9世紀から10世紀、フランク王国には外国勢の侵入が相次いだ。北からノルマン人、東からマジャール人、そして南からイスラム人が侵攻を繰り返し、そのため国内は混乱を極め秩序は大いに乱れた。その時、ノルマン兵に立ち向かい、それを撃退し、西フランク王国の北部を守った地方官がカペー家の父祖でした。その上、カペー家は西フランク王国の王を一時務めたこともある家柄であり、西フランク王国を率いていた実績もあった。カペー家は他の封建領主たちも一目置く存在でした。カペー家は武威を誇る点で日本の源氏に似ていた。

カペー王朝が始まります。カペー王朝は10世紀から14世紀初めまで約350年、続き15代の王を輩出した。中世フランスの基礎を作った王朝といえます。言わば中世日本における鎌倉幕府に相当する。新王を決める選挙は最初だけであり、その後はすべてカペー家の世襲となった。(欧州において王位継承が選挙制で行われた国は中世ドイツや北欧諸国でした。)

ところでカペー王朝は頼朝や鎌倉幕府と違い二重行政に悩むことはなかった。西フランク王国はすでに自滅していたからです。ここには二都物語はありません。カペー王朝は誕生した時からフランスの唯一の支配者となっていた。ですからカペー家は古代王朝と対決し、打倒することに精力を注ぐ必要はなかった。騎士たちに権力を与え、育てることもしなかった。

しかしカペー家を牽制するものは二つありました。一つは宗教です。もう一つは仲間の封建領主たちです。キリスト教は中世の人々に強い影響力を持っていた。聖職者は一種の特権階級として存在し、王や領主と対等に渡り合う。教会領地はフランス全土の二割くらいを占めるほど広大であり、農民たちからしっかり税を得ていた。その点、彼らは大領主に等しい。西欧の王たちはローマ教皇や枢機卿と度々、激しい権力闘争を行った。しかし宗教改革やフランス革命を経て聖職者は権力を失い、宗教と政治はきれいに切り離さることになった。

一方、カペー家を牽制するもので最大のものは仲間の封建領主たちでした。カペー家は多数の封建領主の中の一人です。それでいて彼らの上に立つ盟主です。その最初の王位は選挙により彼らから与えられたものであり、武力で並み居る領主たちを打倒して手に入れたものではない。他の領主たちから一目置かれていたとはいえ、カペー家の肩身は狭い。王権を振りかざし、領主たちを指揮し大号令をかけることにはためらいがある、それは仕方のないことでした。

しかもカペー家の所領はパリを中心とした小さなもので他の大領主たちの広大な領国に比べ貧弱であった。王といっても名ばかりです。彼よりも広大な領地を持ち、財力も軍事力も優っている領主は幾人もいた。彼がそんな領主たちに本領安堵を行ったのかどうかはわかりません。けれども事実として領主たちは分権制を維持し、それぞれの領国自治を行っていた。一定の秩序は成立していた。

王位の継承はカペー家2代目から世襲制となり、少しずつ王家らしく振る舞うようになる。それは王権の強化となり、王は領主たちの権力を徐々に奪取していきます。時には争って相手を打ち破ることもありますが、多くは政略結婚や相手の不祥事につけ込むこと、領主と領主の争いに仲裁役を買って出る、領地をお金で購入する、あるいは国替えなどで王領を増やしていった。

そして12世紀後半、カペー家当主はようやくフランス国の盟主として毅然とした態度で君臨するようになる。領主たちに対し正式に本領安堵を行うようになりました。カペー家がフランスの盟主となってから約200年後のことです。それは中世王にとって最も重要な仕事です。カペー家当主は領主仲間の上に立ち、領主一人一人にその領地を安堵した。それはカペー家が統治能力を高めた結果です。中世フランスの分権体制が名実ともに確立した瞬間でした。そしてそれは同時に王権が強化され、一方領主たちの領主権が弱体化していく、そして中世の時代基盤が徐々に失われていく契機でもありました。

手を変え、品を変え、辛抱強く領主たちを倒し、彼らの領国を奪う。そんな地道な苦労が実ってカペー王朝が消滅する14世紀前半にはカペー家の王領はフランス全土の三分の一を超えるくらいまで拡大していました。秀吉にしても家康にしてもそんなに大きな直轄地を確保したことはありません。せいぜい日本の全国土の五分の一くらいの広さであったことでしょう。

無敵のナポレオン軍

中世の西欧諸国の間では経済的な競争や戦争は熾烈でした。江戸時代の日本のような穏やかで平和な中世は存在しなかった。ですから歴代の王は強力な国軍の創設を夢見、そして国中の税を一手に集める税制度を切望していた。それは王たちの悲願でした。中世フランスが国家としてまとまりをもつようになればなるほど税や兵の集中化は不可欠となる。しかしフランスの現実は兵も税金も全国に分散していた。封建領主たちは既得権を死守して手放しません。

中世フランスはイングランドなどの近隣諸国と度々戦争をした。十字軍にも参加した。そのため膨大な戦費が必要とされ王朝の財政を常に圧迫した。王は戦費の調達に苦しみ、王領地の農民に重税を課した。それでも十分な戦費を確保できないため王は軍事税という新しい税をひねり出す。それは国家防衛のための税として王領地の農民だけではなく、すべての国民が支払うべきものとした。それは13世紀末のことで、税の中央集権化の第一歩でした。

分権制の下、フランス国民というものは存在しません、あるいはぼんやりと存在する。人々はそれぞれ領主の領民であり、国民とは言いにくい。彼らは国の法に従うよりも領主の法に従う。国に納税するのではなく、領主に納税する。ですから人々は本来ならたとえ王の要請であろうと領主以外の者に税を払う義務はないのですが、外国との戦争のためという国家の大事ゆえ、例外的に王へ納税した。王権が領主を飛び越えて直接領民と結びつく。それはいわば領主権の侵害でした。しかし領主たちはこれを横目で見ながら黙認した。

但し、領主だけはこの軍事税を支払いません。何故なら領主は戦役を果たすため王と一緒に敵と戦う、しかもその遠征費は自己負担です。それは当然、領主の財政を圧迫します。戦役と軍事税と二重の義務を負うことはできない、それが彼らの言い分です。それはもっともなことであり、王と彼らの双務契約に反します。ですから領主たちは王に強硬に求められても軍事税を支払いませんでした。こうした軍事税を巡る王と領主の確執は消えることなくその後も度々生じましたが、その都度王は固い分権制に阻まれ目的を達することはできなかった。領主たちは免税権を手放さなかった。

領主の他に聖職者と特権都市も免税権を持っていました。都市と王は双務契約を結ぶ。中世が深まるにつれ貨幣経済は勢いを増し、商人や職人の影響力は大きくなっていく。王は彼らの財力に注目し、彼等と契約を交わす。都市に住む商人や職人に行政、司法、徴税などの自治権を与える。ですから都市は小型の領国に等しい。その代り都市は王に兵や商業税などを提供する。その時、都市は領主と同じように免税権を得た。

都市はフランス全土に散らばって存在していた。王領地内にある都市もあれば領主たちの領地内にいくつもあった。王は王領地内の都市だけではなく、領主たちの領地内にある都市とも契約を交わした。都市にとっても王との契約は渡りに船でした。都市は強面の領主支配から逃れて自治を獲得できるからです。領主たちは彼らを飛び越えて王と都市とが直接、取引することを認めるしかなかった。ここでも領主の自治権は侵害されていた。こうして王は分権制の所々に穴を開けて、集権的な徴税策や徴兵策を徐々に進めていった。

15世紀半ば軍事税は一般税として確立した。そして戦争の起こった年だけに徴収するのではなく、毎年徴収するようになった。税のすり替えが巧みに行われました。そして軍事税は王国の主要な財源となりフランス革命まで存続した。王の支配はフランスの大半に及びその影響力を強めていったが、領主や聖職者や特権都市の得ていた免税権やその他の特権は分権制の証として中世の最後まで存続した。

そして18世紀、フランス王と領主たちとの権力闘争は最高潮に達する。両者は一歩も引かない。王は戦費調達のため領主から軍事税を徴収しようと領主に迫る、一方、領主は頑強にこれに抵抗する。この対立はパリ市民やフランス全土の農民をも巻き込んで内乱を引き起こした。そして王と領主たちとの対立は次第に支配者(王と領主)と被治者(市民や農民)との争いに変化していった。

農民たちは王や領主への積年の恨みから怒りを爆発させた。農民そして市民たちは王を処刑し、領主たちを国外に追放した。特権階級はこうして消えて、人々は不平等社会から解放された。そして憲法が人々の支配者となる。人治から法治への大転換でした。同時に分権統治は終焉を迎え国家体制は中央集権制へと移った。そして軍事税も廃止された。800年に及ぶ中世フランスの歴史はこうして幕を閉じた。

一方、中世日本や中世ドイツは中世フランスに見られるような分権制と中央集権制との厳しい相克には無縁であった。中世日本、特に江戸時代は戦争を起こさず、巻き込まれず、平和を維持したため、幕府は膨大な戦費の調達に悩むことはなかった。大名たちの徴税権は固く守られていた。誰も分権制統治に疑問を持たなかった。

鎌倉幕府は唯一、外国からの日本侵攻を経験した中世の政権です。幕府はモンゴル軍と戦うため九州の武士や荘園領主の従者たちに動員令を発した。それまで幕府は武士たちの所領への介入を控え、彼らの自治を認めてきた。しかし外国との戦に接し、その方針は覆されて彼らを幕府の下に集め、指揮を執る、そして九州に防衛体制を組む。これは軍制の一元化の第一歩でした。

モンゴル軍の撤退した後、武士たちは疲弊していた。彼らの費やした戦費はとても大きく、しかし幕府から恩賞はほとんどもらえず、武士の多くは借金を背負ったまま没落していった。恩賞もまた戦費ととらえるなら幕府は戦費の調達に失敗したといえます。もし元寇がわずか二回だけではなく、100年間にわたり幾度も繰り返されていたら軍制も税制も中世フランスと同様、一元化の方向に向かったのではないでしょうか。それは必然的な流れです。

けれども元寇は二回で終わった。ですから幕府による体制の中央集権化はそれほど進まなかった。そのため武士たちは分権制と中央集権制との深刻な相克に巻き込まれずに済んだ。しかし国防の結果もたらされた武士たちの戦死や負傷や借金、そして込み入った戦後処理の騒動は幕府の統治力を奪い、国内の治安は大きく乱れた。それでも鎌倉幕府は治安の乱れを正すことはできず、その崩壊を速めた。

しかし中世日本と中世ドイツも中世フランスと同じようにやがて分権制の廃止を目指すようになる。その原因は中世国に共通して見られるものですが、それは外国との対立や争いから引き起こされる国家存亡の危機からです。その時国家は一つにまとまり、国家権力は中央集権化される。

日本の場合は西欧列強の日本進出です。19世紀の前半から半ばにかけてロシアやアメリカやイギリスなどが日本に進出し、開国を強く要求した。この時、下級武士たちの一群が立ち上がり、国防と新しい国作りに奔走することになる。これまでのような分権体制のままでは国家間のまともな付き合いも戦争もできません。彼らは自ら武士という特権身分を捨て、身分制を廃止した。そして廃藩置県を実施し、それまで200以上の領国に分かれていた国家権力を一つにまとめ上げた。兵と税の集中化です。明治維新は国家存亡をかけた日本人の革命運動でした。フランス革命から約100年後のことです。

18世紀末、中世ドイツはナポレオン軍によって侵略を受けた。ナポレオン軍とはフランスの国軍のことであり、フランス革命によって軍制の一元化を果たした結果生まれたものです。それは無敵であった。西欧諸国はナポレオン軍によって文字通り蹂躙された。それは中世国の寄せ集めの軍とは違う。中世国の軍は王の軍、領主Aの軍、領主Bの軍などからなるパッチワーク軍であり、命令系統があいまいな、そして兵士の質も一様でない軍です。中には自分勝手に戦場から逃げてしまうものもいる。

フランス国軍は全国から集められた多数の兵士が同一の武装をして一人の指揮官、例えばナポレオンの指揮命令のもと一糸乱れぬ進軍をする。そして同時に税制も一元化された。全国の税や税率は領国の垣根を越えてすべて一律に決められ税のすべては中央政府に集められた。それは巨額であり豊富な軍資金となり、多数の兵士が雇われ、最新式の強力な武器が準備された。中世ドイツのパッチワーク軍に勝ち目はなかった。分権制の限界は明らかでした。ドイツは約900年の中世に別れを告げて国家の統一を急いだ。中世ドイツの盟主(神聖ローマ帝国皇帝)は引導を渡され、領邦国家の一つ、プロイセンが中心となりドイツの現代化が推進された。プロイセンはいわば明治維新における薩摩や長州といえます。

フランス、日本そしてドイツといずれの国も外国との激しいせめぎ合いが原因となり、現代化革命が引き起こされ、その結果、三国とも古代、中世そして現代と段階的に発展する歴史を持つことになった。

歴史学者はこの三つの段階的な歴史発展を認めないのでしょうか。あくまでも近世と呼ばれる時代を含めた四つの区分を主張するのでしょうか。現代化革命は中世の時代基盤を現代の時代基盤に切り替えた大事件でした。分権制と中央集権制との激しい相克が一気に超克された。そんな変革の中で近世という時代はどんな位置を確保するというのでしょう、そこに近世の入り込む余地は全くありません。日本やフランスやドイツにおいて中世はまさしく現代へと直結したのであり、その推移の途中には何もない。そもそも近世と呼ばれる時代に近世固有の時代基盤は存在しない。歴史学者の唱える近世とは中世の後半部でしかない。近世という区分を設けることで現代化革命というものの姿はあいまいなものとなり、歴史の推移が歪められてしまう。

中世ドイツの皇帝

東フランク王国は10世紀に崩壊しました。崩壊後、新たに現れた国は神聖ローマ帝国と呼ばれ、今のドイツとオーストリアに相当する広大な国です。そこでは隣のフランスと同様、封建領主や騎士が現れ中世が始まりました。旧王国の地方官たちの多くが生き延びてそれぞれの地で封建領主へと化していった。彼ら領主はしかしフランスとは異なる独特の中世国を形成するようになります。その姿は中世日本とよく似ていて分権制は岩のように固かった。
(ここから神聖ローマ帝国を中世ドイツと呼び、話を進めていきます。その方が分かりやすく、中世日本、中世フランスと比較しやすいからです)

オットー1世
オットー1世 912-973
中世ドイツの創始者 ザクセン朝の初代皇帝

13世紀、中世ドイツの分権制は堅固になりました。中世ドイツ王、フリードリッヒ2世は領主たちに独自の裁判権や関税徴収権を認めました。彼はドイツ王でしたが、同時に西欧全体を率いるローマ皇帝でもありました。そのため彼はドイツよりもイタリアで統治に励み、そして十字軍を率いてアラブの地で活躍もした。そのためドイツの統治はドイツの領主たちに任された。それは結果としてドイツの分権制の強化をもたらし、領国の存在感は高まり領主たちは自治権を確実なものにした。それは王権の弱体化です。中世ドイツ特有の王権不在の統治体制が次第に形成されていきます。

16世紀、西欧にはルターによる宗教改革の運動が起きました。腐敗した旧教に対し、新教が誕生した。しかし中世ドイツ王はローマ教会の守護神として振る舞い、旧教を強力に支持し新教を認めなかった。王はドイツ王国全体が旧教でまとまることを目指した。同時に領主たちの力を削いで王権の拡大、国家権力の集中化を目論んだ。

しかし新教を支持し、領主権を死守しようとする幾人かのドイツ領主たちは王の行動に抗議し対立を始める。それは宗教選択の自由の追求でした。それが発端となり国内は内乱状態となり、そこに中世フランスやスウェーデンなどの外国までもが領土拡大の野心を秘めてドイツ国内に軍を派遣した。宗教戦争は次第に国際間の戦争へと移行していった。

敵、味方の定かではないその戦争は30年に及び、多数の死者をもたらし、中世ドイツは荒れ果てた。17世紀半ば、ようやく戦争は終結しその結果、ウエストファリア条約が各国の間で結ばれた。それは<神聖ローマ帝国の死亡証明書>と呼ばれるものでした。ドイツ王は王国を旧教で染め上げることに失敗したばかりではなく、王権自体を全面的に喪失した。彼は中世ドイツの名目上の盟主に過ぎなくなった。ハプスブルグ家の当主です。

今回、王が信仰についてあれこれ領主たちに命令することは完全に封じられた。そして領主たちに信仰の自由が認められた。それでも宗派の対立は繰り返され小さな紛争が起きましたが、宗教寛容令も度々発令され、人々の信仰の自由も認められていった。政治と宗教は明確に分離されていった。

一方、この条約においてドイツの封建領主たちは勢力をさらに拡大しそれぞれ主権と外交権と宗教選択権などを得た。それにしても領国が主権と外交権を持つといえばそれはもう独立国です。領主は独立性を強めたというよりも事実、独立した。封建領国は領邦国家と呼ばれ独立国となる。王の権威や権力はどこにも見当たりません。さらに中世ドイツ国の支配下にあったスイスとオランダが独立した。

異様なことですが、中世ドイツの領国は外交権と常備軍を持った。奇妙な中世国家が誕生した。それは分権国家というよりも分立国家とでもいうべきものでした。中央集権体制から最もかけ離れた統治体制です。中世ドイツという大枠だけが存在し、中世ドイツは文字通りパッチワーク国家となる。王は象徴的な盟主となり、王領地(オーストリアやハンガリーなど)だけを統治する領主の一人となった。

こうして中世ドイツは中世フランスと異なり、王と領主たちとの厳しい相克は存在せず、従って絶対王政が現れようはずはなかった。300を超えて存在した大小のドイツの領主たちは緊張感を持ちながら勢力均衡を保ち続けた。むしろ領主たち自身が自国の支配を強権的に行っていた。

ウエストファリア条約はドイツ国の分権制を岩盤の如く不動のものとしたためドイツの国家統一、そして中央集権化は容易に進まず、ドイツの現代化は中世フランスと比べて大きく遅れることになる。すなわち王の実質的な不在、そして300もの多数の領主の存在、さらにそれぞれが数世紀に渡り独自の支配体制を強固に構築していたことは中世ドイツから現状打破の機運を奪い、硬直した中世社会を作り出すことになった。それは江戸時代の分権制よりもさらに強固なものでした。

西欧において神聖ローマ帝国は名ばかりの存在となった。ドイツの封建領主たちばかりではなく、西欧諸国の王たちもローマ皇帝に特別の配慮をしなくなる。最早ローマ皇帝は彼らと同列の王の一人でしかない。西欧は実質的に王国の集合体となった。そして同時に宗教上の皇帝ともいえるローマ教皇もその世俗権力を次第に失っていく。国王たちはローマ教皇と対立し、争い、そして教皇が数世紀に渡り持ち続けた宗教上の権力から自立していく。こうして西欧の国王たちは誰に遠慮することなく、自国の統治に専念できるようになった。それは室町時代、日本の武家政権が古代王朝を支配下に置き、日本の唯一の支配者となった、それ故武家による支配を徹底していったことに似ています。

ドイツの国家統一は1871年に成立した。しかしドイツの現代化は紆余曲折をたどった。そうたやすくは進みません。フランス革命の影響とナポレオンの行った自由、平等思想の大々的な宣伝活動によってドイツの人々は現代化についての知識は十分に持ってはいたが、例えば開設された国民議会は形ばかりのものであり、それは政治の最終決定権を持たないものでした。最終決定権は二人の人物が握った。プロイセンの国王とプロイセンの宰相です。宰相はビスマルクです。それは国民主権の確立とは到底言えなかった。

プロイセンは有力な領邦国家の一つでした。今、プロイセンは新生ドイツの中核的存在として指導力を発揮し、工業を興し、そして強大な軍事力を誇っていた。プロイセンの国王と宰相がドイツを率い、現代化において先行するイギリスやフランスに挑戦し、そして西欧の強大国へと駆け上っていった。ドイツは典型的な富国強兵の国家でした。民主化は後回しとなる。それでも二人は世界で初めて社会保障の制度を成立させた。健康保険、老齢年金、災害保険などを国民のために設けた。

版籍奉還に相当する領主たちの領地の国有化は統一後まもなく実施され、同時に領主たちは新たに貴族として認められた。中世の特権階級は形を変え継続された。そしていわゆる廃州置県がなされたのは1933年、ヒットラーが政権を奪取した時でした。900年の歴史を持つ岩盤のような分権制が廃止され、ドイツは初めて中央集権制の国家となった。

ドイツの現代化の過程は明治時代の日本の現代化を彷彿とさせるのではありませんか。両者の中世はよく似ていた、共に強固な分権体制を確立し、多数の自立した領国を持ち、中央集権制から大きくかけ離れていた。ドイツでは中世王は不在であり、日本では中世王と領主たちは安定した関係を築き、国内には権力闘争はなく、絶対王政的な要素はみじんもなかった。そんな典型的な中世国家を中央集権化しようというのですから日本にとってもドイツにとってもそれは大変な難事業です。恐らく外部からの強い刺激がなければ日本もドイツももうしばらく中世の中で眠り続けたのではないでしょうか。

欧米諸国を視察した明治の指導者たちは特にドイツに親近感を覚えたのではないでしょうか。両者はよく似ていた。フランスやイギリスに挑戦する立場であることにも共鳴したのではないでしょうか。そしてビスマルクの剛直な富国強兵思想に強く影響されたのでしょう。明治時代の日本が現代ドイツの誕生期の姿に似ていることは決して偶然なことではありません。

尚、キリスト教についてですが、キリスト教は西欧諸国の国王や人々と争いを続けただけの存在では無論ありません。確かにローマ教皇や枢機卿は世俗権力を巡り国王たちとしばしば対立し、激しく争いもしました。しかし一方でキリスト教は西欧社会を豊かにすることに大きな力を発揮した。

教会の司祭は人々への説教を通じて西欧社会に道徳を深く根付かせた。聖職者は無論のこと、国王たちもキリスト教の熱心な普及を行い、荘厳なキリスト教会を建て、その内部を宗教絵画や彫刻で飾り、そして信仰心を高める宗教音楽を確立した。それらは今日の建築や芸術の基礎といえます。キリスト教の教義の研究を目的に教会の付属機関として大学や図書館が整備された。そこでは神学に次いで、医学や法学や人文学などの科目が加わっていく。高等教育の始まりでした。さらに聖職者、王侯貴族そして騎士は弱者に対する慈善活動に励み、施療院などを開設した。それは今日の医療、福祉制度の原型でした。これらの事業を眺めればキリスト教が現代社会を生み出したといっても過言ではないでしょう。

日本には統一的に、組織的にそして継続的に日本社会を豊かにする宗教は存在しなかった。

イングランドの異質な中世

今日、フランス西部にノルマンジ―という地名があります。その地名はノルマン人たちがそこに彼らの国を建てた名残です。彼らは北欧からやって来た。フランスに侵攻し、その一部を奪い、そこで統治を始めた。当時、フランスは西フランク王国が崩壊し、カペー王朝が誕生する時代でした。多数の封建領主が出現し城を築き、騎士と契約し、領国を形成していた。カペー王朝は領主たちの領国を認めるようにノルマン人の支配地をも認めてノルマン公国とした。

ノルマン公国は古代国でした。古代王が専制支配していた。それでも近隣の領国は中世国に変貌して、王と領主の間に、そして領主と騎士の間に双務契約が交わされていた。ノルマン人はフランスの政治や文化に徐々に影響され、フランス語を話すようになり、そしてフランスの習慣を身につけていく。もっともノルマン公国の住人の大半はフランス人です。そうした中でノルマン支配者は統治法についても影響を受けた。その結果、ノルマン国は古代国と中世国とが混在する、不思議な体制をとることになる。

ノルマン王はフランスの分権体制を模倣したようです。どのような模倣であったのかははっきりとはわかりません。ですから私なりの推理をお話しします。ノルマン王はあくまでも古代王ですからフランスの分権制や双務契約をそっくりそのまま模倣したとは思えません。従って彼は多少の権力、例えば治安維持の権限を彼の地方官に分け与えるというささやかな模倣を試みたのではないでしょうか。

この推理は中世イングランドを観察すると納得できるかもしれません。1066年、ノルマン公国はイングランドを侵略した。ノルマン王とノルマンの騎士たちは船に乗り、海を渡りイングランドに攻め込んだ。そしてイングランドの支配者たちを殺害し、イングランドの全土を略奪した。ノルマンの征服として知られる侵略戦争です。

ノルマン征服王は直ちにイングランドの辺境の地に三つの領国を建てた。一つ目はイングランドの南東角のケントの地に建て海の向こうの母国、ノルマン公国を望む、二つ目はイングランドの北、シュローズベリの地に建てスコットランド国に対峙し、三つ目はイングランドの西端、チェスタに建てウェールズ国を脅かす。そして三つは固有の行政権や司法権や徴税権などを持つ自治体であり、王といえどもそれを侵すことはできなかった。(ウェールズとの境には自治都市ヘレフォードも設置されていた。)

この三つの領国を除いたイングランドの土地は二つに大別された。一つは王領地となる。イングランド王となったノルマン征服王はこの土地を直接統治した。それはイングランド全体の2割ほどの広さです。王は残りの土地を征服戦争に戦功のあったノルマンの騎士たちに分け与えた。それはすべて王の新恩給付でした。本領安堵ではありません。父祖の代から受け継いだ土地ではなく、戦いの末、奪い取った土地なのですから。

ウィリアム1世
ウイリアム1世 1027-1087
中世イングランドの創始者 ノルマン朝の初代国王

イングランド王は新恩給付という中世の王らしい仕事を行った。そしてその見返りに騎士たちは王に戦役を約束した。この双務契約も中世らしい出来事です。一方、イングランドの新領主となったノルマン騎士たちは城を築き、地元の農民や町人と初めて言葉を交わす。フランス語と英語の会話です。これからイングランド人たちは数世紀に渡りフランス語を話すようになる。こうして領主と農民たちとのつながりが生まれてきますが、領主が真の統治者となり、農民たちと双務契約を交わすようになるには少なくとも1世紀はかかったことでしょう。

ノルマン征服前のイングランドは古代国でした。特筆すべきことですが古代国が短期間に中世国に生まれ変わるということは歴史的に極めて珍しい。日本、フランス、ドイツは古代国の衰退期や崩壊の中に封建領主や騎士が自然発生的に誕生し、歳月をかけて双務契約を開発していく。その長い時の過程で双務契約の中身が決められ、契約義務を果たすための力や精神が中世人のうちに涵養されていく。分権制や自治の約束事も熾烈な戦いや話し合いによって固まっていく。中世の数々の社会的な規約はこうした具体的な作業の中で詰められ、すべての中世人が常識として共有することになる。

一方、イングランドではある日、いきなり中世が始まった。イングランドには自然発生した封建領主や騎士は存在しなかった。彼らは海の向こうから突然やって来た。隣国同士が互いに牽制し、領地を巡り戦うという中世誕生期の熱気の溢れた歴史は存在しない。イングランドの農民たちは古代王との付き合い方に馴れてはいたが封建領主との付き合い方は知らない。ノルマン領主たちも領国経営にそれほど習熟しているとはいえない。イングランドの中世は実に異様な形で始まった。中世イングランドの領国自治の足腰の弱さはそもそもここにあったといえます。

中世の統治にそれほど慣れていないノルマン王とノルマン騎士たち、そして中世を知らなかったイングランド農民たちが一緒になり、中世の形成に取り組む。それだけでも大変なことです。しかもイングランドに移植される中世は本格的な中世ではなく、変則的なノルマンの中世であった。それは古代的要素の強い、王権が強く、領主権の弱い分権体制です。従って中世誕生期の経験の無さとノルマンの変則的な統治の二つがイングランドの中世を異質なものにした主要な原因といえるでしょう。日本やフランスやドイツの中世とは明らかに異なっていた。

イングランド王は専制君主のように振る舞った。彼は国内の騎士たちすべてに命令し、直接王に忠誠を誓うよう迫った。それは言わば王の下に国軍を創設するようなものです。騎士たちは本来領主と契約を交わしています。にもかかわらずその領主を飛び越えて王が直接騎士と結びつく。それは領主権を侵害するものでした。中世ではありえないことであり、軍制の中央集権化を目指すものでした。

中世の規約の主なものは土地に関するものです。日本やフランスやドイツではそれぞれの領地や村で規約は長い年月をかけて決められ、それに従って紛争は解決されていました。一方、中世の歴史が浅く、分権制が不安定で、自治の未熟なイングランドでは住民のみなが納得する規約は生まれていません。ですから紛争解決は容易ではありませんでした。

王は国王裁判所を設置しました。それは王の権威の下、イングランドの主要な都市で開かれた。領主、騎士、農民、町人も加わり、土地の紛争から放火や泥棒まで様々な問題が裁かれた。それは紛争の解決にとても役立った。分権制が不安定で領国の司法制度が未熟であったからこそ国王裁判所は人々から求められた。それは司法の中央集権化です。しかも裁判の結果、敗けた者は罰金を支払う、あるいは問題の土地や財産が没収されますが、それらはすべて王の収入となった。

強大な王権と未熟な分権制とが中世イングランドの特徴です。一方、中世日本や中世ドイツでは分権制は強固であり、王権は抑制的に働いていた。それは中世らしい中世でした。中世フランスでは歴代のフランス王が中世イングランド王のように度々、中央集権化を試みましたが強固な分権制のため幾度もはねつけられて成功しませんでした。それが成就したのは18世紀後半であり、中世フランスの崩壊と引き換えでした。

イングランドは中世の後発国でした。イングランドには大枠の中世があった、しかしその中身は空疎でした。中世の諸々の規約つくりは遅れており、そのため様々な紛争が起こっていた。王だけが強く確かであった。

マグナカルタの扉

12世紀から13世紀にかけてイングランドはスコットランドやフランスと戦争をして王国の金庫は空になった、そのため王は領主たちに無理難題を突き付けた。すべては彼らから軍資金を収奪するためです。イングランド王は領主たちに新しい税を課す、あるいはこれまでの税を一方的に増税する。それは勿論、彼らの了解をとることのない命令です

中世イングランドには王の権力を規制するそんなものはありません。もっとも例えそうしたものがあったとしても王は無視したことでしょう。領主の義務は戦役です、しかしわけのわからない税を王に支払う義務はない。こうした悪政に幾度も苦しめられていた領主たちはとうとう立ち上がった。彼らは武装し、団結する、そして王にマグナカルタを突き付けた。

1215年、ジョン王はイングランドの自由の大憲章という法典を制定した。正確に言えばジョン王は領主たちに強制されてやむなくそれを受け入れた。それがマグナカルタといわれる憲章です。その扉には次のような言葉が大きく記されていました。<保護しない王に忠誠を尽くさず>と。それは領主たちの王への最後通牒であり、そして何よりも中世の平等主義を表現するものでした。

扉に書かれた言葉はまさに中世人の言葉です。領主たちは中世の本質を鋭くとらえていて、二者の平等という中世の思想を真に理解していた。中世の王は絶対的な存在者ではなく、領主と対等であり互いに補完する関係にある、と。ですから王が彼らを保護しないのなら自分たちも王に尽くさない、と明言した。

二者の平等という思想は古代には存在しない、古代国の地方官は古代王に向かってそんな言葉を発しないし、発しできない。万一、発すれば彼は王によってたちどころに殺害されたことでしょう。この平等主義という思想は双務契約を通して中世に初めて生まれたものであり、今回、王と戦うイングランド領主たちの最高の武器となった。

そしてイングランド王もまた古代的に見えてもやはり中世人でした。この言葉の意味を理解した。だからこそ領主たちの突き付けた諸々の要求を渋々ながらも受け入れた。領主たちは平等主義の観点から彼らと王との関係を厳しく規定し、王権の乱用を許さず、彼らの領主権を確定し、そして中世社会に必要とされる様々な規約を作り上げた。イングランドを本来あるべき中世の姿に整えるためです。

マグナカルタにはいくつかの重要な要求が書かれていますが、その中心は王権の乱用を食い止めるためのものです。例えば王の課税についてです。領主たちは王の課税を制約するため一つの規制を主張した。課税は領主たちの共同の助言を必要とする、つまり領主たちの同意無くして課税はできない、ということです。それはやがて制度化されて現代の議会政治の核心となる。

領主たちは彼らの自治権を王の侵犯から守ろうとした。王は王権を縛るこの条項を受け入れた。その他にマグナカルタは王の代官の悪政を告発し、代官の行動を規制する、都市の自由を保障する、そしてイングランドの自由人すべての諸権利を確認する、などです。マグナカルタの出現は自然発生的に双務契約が誕生しなかった中世イングランドならではの事件でした。

こうして中世イングランドはマグナカルタという青写真をもとに計画的に構築された。現実が生み出したのではなく、平等主義という思想が中世イングランドを構築していく。それは歴史上、イングランドだけに認められる特殊な中世の形成方法です。それは中世日本や中世フランスや中世ドイツとは全く逆の行き方でした。

中世イングランドでは数百年に渡り王と領主たちとは王権と領主権とのせめぎ合いを繰り返しましたが、その紛争を通じて二者の平等の思想はイングランド人の血肉となっていく。イギリス人の口癖であるfairnessという言葉は二者の平等を代弁するものであり、実にマグナカルタの扉の言葉をその源とするといっても過言ではないでしょう。

中世が深まるにつれて領主ばかりではなく、イングランドの農民や町人も二者の平等の思想を身につけていったのでしょう。人々の日常生活においても、様々な問題を解決する際にもこの思想は強く影響を及ぼしたのではないでしょうか。権利と義務に敏感でそしてむしろ情実を抑制するドライなイングランド人気質が誕生した。マグナカルタは現代的な要素を含んでいるといわれていますがそれはこの二者の平等という思想がその根底に流れているからです。(二者の平等という中世の平等思想を提唱することで始めて中世イングランドの異質さは論理的に証明できます。)

しかしマグナカルタは中世イングランドのすべての問題を解決したわけではありませんでした。というのは王位継承や王の諮問機関など王の統治に関する事柄については未定なものが多かった。王家の世襲の条件が詰められていない、あるいは王の代理として王権をふるう者の条件や役割が定まっていない。

王権が極めて強いにもかかわらず、あるいはそうだからこそ王や王権についての規約はあいまいなままであり、そのため王や王権に絡む問題は次から次へと起こった。例えば新しい王を選ぶ時、紛争はしばしば起こった。王位継承の詳細はあいまいでしたので有力領主や聖職者やあるいは外国人までもが入り乱れそれぞれの思惑を秘めて独自の候補者をたてて争う。それは内乱を引き起こした。

王の諮問機関もあいまいな存在でした。王を補佐する人たちは大きな事件のあるたびに入れ替わり、王に取り入り私腹を肥やした。それもまた有力領主の間に対立を生み、内乱を誘発するものでした。そしてその度に王権や王権の使用法が検討され規約が決められ、王に突き付けられ、王はやむなくそれを飲み、そしてその憲章は王本人または次の王によって破棄される、中世イングランドはその繰り返しでした。例えばジョン王はマグナカルタの制定に不満であった、彼はその制定からわずか二か月後にその憲章を破棄させた。

中世日本や中世フランスや中世ドイツではマグナカルタは生まれなかった。それらの封建領主たちはマグナカルタの扉の言葉、<二者の平等>を王たちに向かって発しなかった。それらの国々ではマグナカルタは必要ではなかったからです。そこでは中世の規約の数々は自然発生的に生まれ、揉まれ、成長し、そして整備されていった。今更マグナカルタでもない。中世はすでに確立していた。ですから13世紀の段階で中世の平等主義が高らかに謳われることはなかった。

中世イングランドと決定的に違うところです。中世イングランドでは思想が現実を整え、中世を構築した。二者の平等という思想から現実を眺める行為はイングランド人の習性となる。それは現実を全体として把握し、そしてその中で二者を比較するという術を彼らに授けた。一方、日本やフランスやドイツの中世においては現実自体が中世を構築した。それは自然であり、一般的な歴史の姿です。彼らの中世は平等主義の思想に影響されて構築されたものではない。

日本やフランスやドイツの歴史では言わば平等主義が現実の裏に張り付いて存在していた。それは表に現れて見えるものではなく、現実を支える裏打ちであった。ですから二者の平等は双務契約を通して当たり前のこととして人々に理解されていたが、自立した思想として光を放つことはなかった。

財政革命の衝撃

イングランドの王はそれでも追放される運命にあった。中世イングランドの初期から王の諮問機関は存在していましたが、それはやがて王権に対峙する機関に変身していきます。議会です。議会は王権の乱用に目を光らせ、王権を縛るものでした。それはしばしば王によって廃止され、あるいは骨抜きにされた。それでも領主や市民や農民はあきらめることなく王権に対峙し彼らの議会を成長させていった。

17世紀、名誉革命において最終的に議会制は確立した。イギリス王は王権を失い国家の象徴となる。国民が主権を確立した。イングランド特有の専制的な王権は議会を成長させただけではなく、結果的にイングランドを民主国家に仕立て上げたのでした。何が幸いするかわかりません。中世の後発国であったイギリスが今度は歴史上、一番先に現代国に到達するのです。

しかし当時の議会は貴族や金持ちのジェントリーで占められていた。それは金持ちクラブでした。しかし一般の国民は排除されていた。農民や労働者の代表が加わることになったのは19世紀後半のことです。約、200年かかりました。その時、議会は真の国民議会となった。実際、民主化は一朝一夕で成し遂げられるものではありません。イギリスも日本もドイツもそしてフランスも皆100年以上をかけて確立してきた。

ところでこの議会制の確立はとても重要なことでした。イギリスを政治的に現代化させただけではなく経済や軍事の領域においても多大の影響をもたらすことになる。人々は王を信用しないけれども議会なら信用したからです。

それは17世紀末のことでした。イギリスは北米やカリブ海やアジアで貿易の競争や植民地の獲得を巡りオランダやフランスと戦争を行っていた、そしていつものように国庫の中は空になった。戦費を調達するために議会は新しい税を作って人々に課した。しかしそれだけでは足りません。ところがその時、戦費の調達という長年の懸案が幸か不幸か解決される出来事が起こった。

1694年、民間の富裕者が集まって資金を出し合い、王への貸し付が行われた。それは英国に中央銀行というものを生み出す歴史的なきっかけとなりました。小型の銀行(金貸し)はそれまでいくつもあったが、この銀行はこれまでに見たこともない巨額の資金を準備したということで、その資金が戦費調達や国家事業や産業革命のためにとても役立つことになった。そのためこの銀行は他の銀行と異なり、別格の地位を確保していく、そして英国で唯一の銀行券を発行する銀行になる。

歴代のイングランド王に限らずどの国の王も税収に依存して国家経営や戦争を遂行してきた。小型の金貸しからも資金を借りることもある。しかしそれらの税金や資金では戦費という巨額な費用を賄うことは難しい。そのため王たちは常に苦慮していた。そんな中、王の前に全く新しい収入(借り入れ)の道が開かれた。それまで国内に散らばっていた国民(富裕者)の資金や国外の大金持ちの資金までもが一か所に集まる、そんな途方もない仕組みが開発された。

それは新しい民間の金融機関であり、中央銀行の前身でした。ロンドンの富裕者だけではなく、アムステルダムやスペインの富裕者までもが投資を目的としてイギリスのこの金融機関にお金を預けた。そしてその金融機関はその資金を王に貸すことになる。富裕者たちは何故、借金を踏み倒すかもしれない王に大金が渡ることに異を唱えなかったのかといえばその貸し付けはイギリス議会が保障していたからです。つまり議会が8パーセントの利子を約束した。議会の保証があればこその貸付です。富裕者たちは王のことなど信用しません。しかし議会なら信用した。議会とはいわば国家そのものです。

その巨額の資金を得たイギリスは植民地戦争に勝利し、企業は産業革命を成功に導いた。王は打ち出の木槌を手に入れた。それは財政革命といわれてイギリスの産業革命や世界制覇を強力に推し進めた。巨額な資金が世の中を動かす。資本家が政治や外交や産業を牛耳る時代が始まった。資本主義の時代です。戦争の結果もお金の額で左右される。最早、封建領主や騎士の時代ではありません。こうしてイギリスはいち早く中世から脱出した。

オランダやフランスは英国の豊富な資金に太刀打ちできず負けていった。ちなみにフランスの中央銀行が設立された年はフランス革命後の1800年でした。英国より約100年、遅れていた。金貸しはルイ14世やルイ16世を信用しなかった。彼らは絶対王政の正体を抜け目なく見抜いていた。

ナポレオン軍(フランス国軍)が中世ドイツを破ったようにイギリス中央銀行(の前身の金融機関)が中世フランスを破った。税や兵士の集中化とともに資金の集中化も凄まじい破壊力を持っていた。それらはいずれも中世を崩壊させた。一言でいえば国民主権をいち早く確立したイギリスが西欧の覇権を奪い、そして世界を制覇した。

ところで絶対王政は王による専制的政治といわれていますが、それは時代順でいうと中世の後に来るもので現代へとつながるものと一般的に解釈されています。そうであるなら中世イングランドには絶対王政は存在しなかったといえます。つまり王による専制的政治は中世イングランドの専売特許のようなもので11世紀の中世の始まりから17世紀の終わりまで存在していた。イングランドの中世はすべてが専制的な政治でしたから。

何よりも中世イングランドには若い中世は存在しなかった。領主たちの元気の良い時代はほとんどありません。中世の初めからノルマン王は騎士たちに忠誠を誓わせ、まるで国民軍を創設するような振る舞いをした。国王裁判所を設けて司法制度の一元化を実現していた。そして王権の乱用によって領主たちの領主権を度々侵害していた。それはほとんど中央集権国家でした。

こうした強権的な政治は程度の差はあるものの中世イングランドのすべての時代に及んでいた。すなわち単純に言えば中世イングランドの歴史は初めから最後まで絶対王政の歴史であったといえます。しかしこれを絶対王政と呼ぶのでしょうか。中世フランスの絶対王政とは全く意味が違います。

中世国家のまとめ

以上で中世国の紹介を終えます。中世日本、中世フランス、中世ドイツそして中世イングランドはそれぞれ独自の中世を築き、そして破壊した。中世には大きく分けて二つの型が存在した。一つは日本やドイツに見られる中世、そしてもう一つはフランスやイングランドの中世でした。

中世日本と中世ドイツでは王と領主たちとの間に諍いはなかった。中世日本の王と領主たちは権力闘争を行わなかった、その必要はなく皆、平穏に暮らしていた。そして中世ドイツではそもそも王が存在しないも同然であった、ですから王と領主たちとの争いが起きるはずもなく、中世の破壊という社会的な運動は生じなかった。

一方、中世イングランドと中世フランスでは王権の乱用が繰り返され、そして領主たちの権利がしばしば損なわれあるいは脅かされた。それは中世の特権階級の深刻な内輪もめです。そして内輪もめは結果として特権階級自身の破滅につながり、中世の崩壊をもたらした。そしてその対立と破滅は幸いなことに議会制や憲法の開発を促した。

現代化革命においてイギリスは議会制を成立させ、そしてフランスは憲法を制定した。共に最初の目的は同じであり、王権をきつく縛り、王権の乱用を食い止め領主権をしっかり保全するためでした。しかし現実はそれをはるかに超えた。王権が制約を受けるというよりも王権自体が消滅したからです。それは生々しくそして劇的でした。

人々が議会制や憲法を追い求めれば追い求めるほど当然のことながら王はより頑強に抵抗を示す。この両者の激しい対立は結局、人々が王を処刑する、あるいは領主たちが王を国外に追放することによって決着することになった。その結果、(不完全なものではありましたが)人類の歴史上、初めて王に変わり国民が国家の主権を握った。

議会制や憲法に基付く民主政治は人々の安全と安心を約束する最良の統治法でした。人類の英知の結晶です。中世イングランドと中世フランスの現代化革命は西欧諸国そして中世日本に深い影響を与えることになる。

現代化革命は世界の他の国々にも伝えられた。いくつかの国はフランスやイギリスの現代化を参考としてそれに挑戦したがあえなく挫折した。その理由はそれらの国が中世を通過していなかったからです。民主制を支える基盤を国民は形成できずにいる。

中世は古代と現代の過渡期といえます。しかし単なる橋渡しではない、中世は古代を超克する時代でした。中世化革命は古代固有の事柄を改革し、あるいは廃止し、そして中世固有の新しいものを生み出していった。そして中世は現代に移行する。そして現代は中世の遺産をもとにして現代固有の素晴らしい事柄、例えば法治や民主政治や資本主義を開発した。現代は古代から一足飛びに成立したのではない。それは不可能なことです。中世がなければ現代は誕生しません。中世は人類にとって不可欠な時代でした。

Chapter 10
世界にそびえる二つの国家群

古代国の現代化

中世日本や中世西欧において多くの領主領国には独自の行政や司法や産業や富や風習や文化が数世紀に渡り蓄積されていた。直接、間接にそれらを一か所に集めること、それを高度化すること、あるいは革新すること、それが現代化革命でした。その結果、特に資本や税や兵の集中はとてつもなく大きな力を生み出した。

こうして現代は中世の遺産の上に築かれました。ですから中世を通過しなかった国には現代は訪れません。例えばロシアの現代化についてみてみましょう。ロシアは20世紀の初めまでロマノフ王家による専制国家であり、素朴な中央集権制が布かれていました。それは長年に渡り、中央が地方の富を吸い続けてきたことを示すものです。ですから地方はやせて貧しかった。地方独自の産業や文化は十分に育たず、中央の風習や文化が細々と反映されるばかりでした。そして地方長官が地方を強圧的に支配していた。

古代国の現代化には問題が二つあります。一つは国家体制が分権制ではないことです。すでに中央集権制を布いている国が改めて中央集権制を布くことに意味はありません。例え、無理にそれを行ってみても地方にはすでに富はなく、いくつ集めてみても大きな破壊力を持ちません。その点、ロシアの現代化は矛盾であり、無意味です。

もう一つは統治者の問題です。人(古代王や独裁者や独裁政党)が人を支配し続ける限りそこには法による支配は出現しません。ピョートル大帝以来、ロシアは西欧の文化、文明を積極的に摂取し続けてきた。西欧に追いつくためです。その時からすでに300年を経過していますがロシアは法治国家にもそして民主国家にもなっていません。

例えばロシアは西欧の都市共同体を国内に移植することに失敗した。というのは王や独裁者や独裁政党は新しく作り上げた都市に自治を許さなかったからです。市長や市の幹部は中央と太く結びつく人々であり、彼らは市民を管理した。彼らはいわば古代王の地方長官に当たる。

あるいは市長はしばしば縁故主義によって選ばれる。不正な選挙です。そんな都市の中に自由の息吹が生まれるはずはありません。結局、ロシアの人々は都市共同体そして国家共同体に生きるために必要な順法精神に無縁なままです。

そして市長の強圧的な政治や縁故主義の恣意的な政治が行われていては人々の中に自律の精神は育くまれません。自由な意見の主張や厳しい自己抑制も身に付きません。こうした中世の精神の欠如は西欧から導入された議会や憲法を骨抜きにして健全な民主政治を遠ざけた。

ロマノフ王朝の崩壊後、ロシアには独裁政党や独裁者が次々と現れ、その結果、ロシアの国民は中国人と同じく歴史上、一度も主権を握ったことがない。強制収容、密告制、そして悪質なプロパガンダが横行した。今も言論の自由は乏しく、体制を非難する者は暗殺される始末です。ロシア社会は依然として古代のままです。いくら多くの西欧の知識や思想がロシアに流れ込んでも人々の生き方を変えることができません。ロシアは民主国家にならないし、なれない。

一方、ロシアは個人の能力の開発や産業の開発、特に科学技術の分野での開発は進んでいます。西欧の人文知識や科学技術は個々のロシア人を大きく成長させた。実際、ロシアの人々は芸術や学問やスポーツの領域で数々の美しい花を咲かせています、そして科学者は軍事の領域でアメリカと並ぶ強力な武器を開発した。

前述しましたが中世は人々の精神を高度化したが、人々の個人的な能力を変えることはなかった。個人のもつ能力は古代人でも中世人でも現代人でも皆同じです。古代人が現代人よりも腕力が強いとか、現代人が古代人より賢いということはない。ですから中世を通過する、しないに関わらずロシア人も個人が個人の能力を純粋に発揮できる領域で進化し続けています。

ロシア人の精神は古代のまま、しかしロシア人の知識や技術は現代的、それが今のロシア国民です。あるいは古代国家の中に現代風の国民が古代的に暮らしているともいえるでしょう。歪みのある、抑圧された国家です。ですから科学技術の進歩、特に武器の開発が民主制に裏打ちされていない状況で行われていることに不気味さを感じます。それは中国や中東諸国も同じです。

古代人が民主国を目指すなら先ずは古代王や特権階級を打倒すること以外に道はありません。クーデター無に前に進むことはできない。国民主権の確立は民主政治の大前提です。しかしロシアや中国の国民はなかなか立ち上がろうとはしません。

2012年から2013年にかけてアラブの人々は特権者の打倒に立ち上がった。アラブの春といわれた民主化運動です。西欧諸国やアメリカはこれを応援し、アラブの人々と共に独裁者を追放した。それはアラブの人々が史上、初めて主権を握った時であり、記念すべきことでした。一気に明るい未来がアラブ全域に広がった。

けれども今、アラブ諸国は依然の古代国に戻っています。アラブ諸国では民主政治が行われていません。エジプトでは軍司令官が支配者となっている、シリアでは地獄のような内戦が起きている、そして他の国では王様が依然として実権を握っている。あるいは宗教指導者が政治に介入する。人々は相互信頼に満ちた社会を構築できない。

クーデター、憲法制定、そして機械工業の導入と三拍子そろって現代化革命は行われるはずでした。しかしアラブの革命は瞬く間に挫折して民主化は達成されなかった。その直接の原因は選挙制が正常に機能しなかったからです。例えばエジプトの場合ですが、議会の開設のため国民選挙が行われました、しかしその選挙に負けた人たちが敗北を認めず、勝者に対し暴動を働いた。人々は選挙結果に従いません。民主国ではありえないことです。国内は内乱状態となり、やがて軍が介入し武力による統治が始まった。

村落自治や都市自治を経験しない国の国民は自律や順法の精神に乏しい。選挙法は法の一つですが、人々はそれを順守できない。選挙は国民同士の大掛かりな話し合いですが、彼らは合意を得る行為に馴れていません。中世の精神である忍耐や責任感や誠実さに欠けているからです。それでは選挙は無意味であり、法治は骨抜きであり、民主政治は成立しない。

そして双務契約を結ぶことに未経験な人々は平等主義に疎く、その実践は難しい。さらに分権制ではなく、素朴な中央集権制であった国で革命を起こしても集権化の果実は期待できません。ロシアや中国と同じように地方には富も多様な文化も蓄積されていないからです。ですから集権化してみても国力が一気に高まることもない。アラブの人たちは現代化にとって必須な要件を欠いていた。

アラブの春に期待し、アラブの人たちを応援した西欧諸国やアメリカは今、どんな気持ちでいるのでしょうか。この挫折の原因や意味を分析しているのでしょうか。分析結果はどんなものでしょう。国家の民主化を達成するために必要なものとは何なのかということを追求し,答えを手に入れたのでしょうか。

過去一世紀、現代化に失敗した国や未完に終わっている国はその原因を自国の文明と西欧の文明とが対立的であり、互いに協調せず、従って現代化は上手く進まなかったと主張する。物事を表面的に見ればその通りかもしれません。しかしその実態は古代と現代の衝突に他ならない。古代の硬直した、服従の精神では現代文明を消化吸収することはできません。

法治主義を実践できる厳しい精神が是非、必要です。何よりも約束や契約を堅く順守する精神の強さが求められる。家族主義や縁故主義や権威主義を排して法を最優先することが求められる。虚偽と事実を明確に分ける強い力が求められる。命令に服従するのではなく、自分で物事を正確に判断する自律力が求められる。自分の考えを主張するだけではなく、自己を規制する厳しい忍耐力が求められる。自分のことだけではなく、全体を俯瞰する鳥の眼も求められる、などなどです。これらが現代文明を消化吸収するための消化酵素といえます。別名、中世の精神です。

それでもインドやトルコがロシアや中国に比べ優れているところは武力行使に一定の歯止めがかけられていることです。野放しの状態ではありません。国民が主権をしっかり握っている限りそして議会制が機能し一定の確かさで話し合いがもたれる状況がある限り武力行使や他国侵略の心配はありません。

これからの世界

日本や西欧そしてアメリカなどは現代化(集中化と変革と民主化)を果たすことによって大きな力を持った、一方世界には現代化を果たせない国もある。そのため両者の格差は開く一方となる。18世紀から20世紀前半まで繰り広げられた植民地支配は両者の格差を鮮明に映し出していた。言わば現代国と古代国との格差が残酷な形で現れた。

現代化を通じて日本、西欧そしてアメリカなどは法の支配を受け入れた。人々の生存競争は法の下に公平に行われるようになった。しかしそれらの国においても法の支配はあくまでも国内だけで行われていて、海外は力の支配がまかり通る弱肉強食の世界でした。日本も西欧各国もアメリカも帝国主義の旗を掲げてアジア、アフリカの国々を武力で侵略し、植民地経営を積極的に進めていた。法の支配など関係なかった。

日本や西欧そしてアメリカが国内だけでなく、世界においても法の支配を実行しようと真剣に考えるようになるのは第二次世界大戦後のことです。勝利国は国際連合を作り、国連憲章を制定した。植民地経営も終わりを迎えた。

国連憲章には平和主義、平等主義、法治主義、基本的人権の尊重、男女平等、武力行使の抑制など素晴らしいことがたくさんちりばめられてある。特に、憲章は世界の国々が法の下、平等であると認め大きな国であろうと小さな国であろうとみな憲章や国際法や条約などを順守し、その上で公平に生存競争しようと訴えている。それはつまり国際間の紛争に関しては武力を否定し、話し合いによる解決を求めるものです。

国連憲章は立派ですが、国連自体は不平等な組織です。国連の通常の会議では少数の常任理事国が最終決定権を握っており他の国はなすすべもない。彼らは今日の特権階級であり、世界を牛耳っている。しかも武力行使に明け暮れる古代国が二つも入っている、ロシアと中国です。それでも国連の不平等を改革する運動はほとんど盛り上がっていない。国連の力がそもそも弱いものだから、誰も真剣に相手にしない。他人事なのでしょう。世界は国連が法の支配を本気で望んでいるとは思っていません。

すなわち今の世界は真の盟主を持たず、世界の双務契約は全く開発されていません。世界の(本来の)盟主と国家との間には何のギブアンドテイクもない。世界は狭くなったといっても世界法は無いに等しく、人々の世界統治は実に未分化の状態です。一体、誰が、いつ世界法を定め、そして新しい、安全な世界秩序を形成するのでしょうか。

ところで一つの疑問があります。世界の安全にかかわることです。それは世界の歴史は前に進まず、逆行することがあるのか、というものです。現代国が古代国へと回帰することです。例えばロシアや中国などの古代国が先進国と戦い、先進国を打ち負かしたとしたら古代国が世界の支配者となるかもしれないという状況のことです。恐ろしい事態といえます。歴史は逆行し世界全体が古代国と化す。人々は言論の自由を失い、古代王に服従して生きることになるでしょう。

これは空想を楽しんでいるのではありません。これは空想ではなく、現実に起きていることです。例えば民主主義が古代国によって強引に飲み込まれようとしている状況は今の香港に見て取れます。近い将来、香港では民主主義は消えてなくなり中国の特権階級の不気味な古代政治が始まるかもしれない。

世界に古代国が存在する限りこのような悪夢はなくなりません。世界のありようは武力次第です。人類の幸せは武力の上に成立している。強いものが勝つ、獣の世界です。それが世界の現実です。従って現在の民主主義を維持するため人々は何をなすべきでしょうか。

歴史矛盾は解決されていません。歴史は先進国と発展途上国の二つを意図的に、悪意を持って作り上げたのではない、二つは自然に出来上がった、しかも1000年もの長い歳月をかけて。そしてこの格差は現代化革命によって決定つけられた。その大きな格差は勧告やお金や武力によって是正できるものではありません。

二つの国家群の格差は両者の精神の違いという根本的なものから生み出されている。目に見えない精神をどうしたら制御しうるのでしょう。人間の精神を変革することは実に難しい。それは1世紀や2世紀で簡単に解決できるものではない。しかも何千万人、何億人といわれる古代国の人々の硬直した精神を、です。

ですからこれまで言われてきた世界の二分法である西側諸国と東側諸国との対立という構図は現代国と古代国との対立の構図という、より根源的な二分法に言い換えられるべきでしょう。

しかし古代国を非難してみても仕方がない。それらの国は中世化革命を起こすための四つの条件のいずれかを欠いていた、しかもその欠落の原因は人的なものというよりも地形や地理といった自然なものであったからです。 

一つだけ提言があります。世界の司法制度の充実です。世界法廷を世界のあちこちに、例えば10か所くらい設ける。今はハーグにあるだけです。そして国家間の紛争や地域間の問題を裁判する。習うよりも慣れろ、です。世界法廷を日常の世界に引き込む。

武力や謀略ではなく話し合いによる問題解決が当たり前のようにするための制度作りです。そして虚偽や情実や権力ではなく事実に基付く審判に馴れるためです。順法精神や現実主義が多くの人々に涵養されるには1世紀をかけても無理かもしれません。裁判結果に従わない無法国は後を絶たないかもしれない。それでも武力衝突を起こさないこと、そして生存競争は法の下で行われることを求め続けることは大切でしょう。一歩、一歩、歩むしかないのではありませんか。

最後に一言、近世は不要です。

補遺

<封建制>を定義する

この論文では封建制という歴史用語を使用しませんでした。というのは今日、歴史学において封建制や封建制社会や封建時代という言葉はあいまいな意味を持ち、その概念は正確に定義されていません。例えば封建制は中国の周の国に布かれた、あるいはそれは古代イスラムの世界や古代インドの中で活用された、そしてそれは中世日本や中世西欧にも見られた、などと封建制は歴史のあちこちにその姿を現したといわれています。しかしこれらは同一の封建制度といえるでしょうか。大いに疑問です。大まかで印象的な判断からしてもそれぞれは異なる内容を持っているように見えます。しかし残念ながらその相違は今も論理的に立証されておらず、封建制の定義はあいまいなままです。

ここにおいて改めて封建制の定義を試みてみたいと思います。この論文ですでに紹介しましたが、古代イスラムや古代インドで行われた請負統治は古代王が財政危機などの苦境の中、特に混乱している地方の地方官を一度、解雇し改めて彼をその地の統治請負人として雇うことでした。その時、王は彼にその地の警察権や徴税権などの権力を譲り、時にはその土地とそこに暮らす人々をさえ分け与えた。そして王は彼に確かな徴税と治安の維持を託した。彼は王の単なる代理人ではなくその地の支配者となります。

この請負は結局、王国を王の(大きな)支配地と請負人による(小さな)支配地との二つに分割することでした。国が二つに分けられる、それは一種の分権統治です。そしてそれは古代王にとって危険な制度でもありました。その地の統治を請け負った請負人は与えられた権力を行使し、人々を支配し次第に力を蓄えていく、そして自立できるようになると王を裏切り自ら新しい王になる。

王と請負人の間にあるものは命令者と服従者の上下関係です。この上下関係は両者の力関係に基付いています。王の力が大きいこと、そして権力を得た請負人の力がまだ小さいこと、この大小の力の差が彼らの上下関係を維持しています。従って両者の持つ力が変化する時、例えば請負人の力が大きくなり王の力と並ぶ、あるいはそれを凌駕する時、二人の上下関係は逆転する。力だけが物事を決める。つまり古代の分権制は力関係によって支えられています。

古代は弱肉強食の獣の世界に等しい。古代国は二人の支配者を認めない。古代国に二人の支配者が並立することは一時的にせよ奇跡的なことです。ですから古代の分権制は危ういものであり、初めから破綻する運命を持っている。それはつかの間の制度であり、力次第の不安定な制度です。

古代の請負者は王に対する忠誠心など持っていません。彼は王から重要な権力を与えられた、それは確かに大きな贈り物でありその時、彼は王に大いに感謝したことでしょう。しかしそれは単なる贈り物であるはずがない。それは王の苦肉の策であり、治安の維持や徴税を徹底するための例外的な統治法でした。贈り物に応えてその地をしっかり統治するようにという王のきつい命令です。いわばおいしい餌を役人の鼻の前にぶら下げて全速力で走らせようとする魂胆です。ですから最初のうち彼は王のまじめな服従者として徴税や治安の維持に努めた。

王と請負人との関係は双務関係ではなく片務関係です。権力や土地の贈り物は中世日本や中世西欧で行われた本領安堵という行為を意味しません。というのは役人であった請負人はそもそも自分の土地を持っていなかった。地方官はあくまでも王の部下であり、自立していません。ですから王は本領を安堵するといった行為を無産の地方官に対しできるはずがない。ですから贈り物は王が地方官を保護するためのものではありません。

贈る行為は王の命令の変形した姿です。大層な贈り物をもらった分、請負人の義務はとても重いものとなり、彼は王に対し不安に満ちた服従心で震える。それが王の狙いです。王は何の義務も持たず、請負人のみが重い義務を持つ。これは双務契約ではありません。しかしやがてこれを千載一遇の好機ととらえ始めた請負人は野心に燃える、自らの王国を夢見る。ここに忠誠心など育まれるはずはない。

一部の歴史学者は古代イスラムや古代インドの分権制を中世日本や中世西欧の分権制と同じものと誤解しています。その結果、古代イスラムや古代インドでも封建社会が存在したと主張しています。しかしその説は誤りです。彼らは双務契約というものを誤って理解している。彼らは片務関係を双務関係と見誤り、贈り物を本領安堵と取り違え、服従を忠誠と誤解する。彼らは双務契約を結ぶことと片務関係が行われていることの区別ができていません。

紀元前の中国には周という古代国がありました。この国はいわゆる封建制を国家体制としたことで知られています。周の国は周王が治めていました。彼は周の国の各地に彼の血縁者を派遣し、その地を統治させた。血縁者あるいは縁故者は王の兄弟や従弟や叔父たちです。彼らは王に従属する人たちであり、基本的に非力な者たちでした。彼らは王から土地と人々を分け与えられ、同時に行政権、徴税権、軍事権を譲り受け、その地の侯王となり人々を支配する。これも請負制です。周の国はこうして周王と幾人もの侯王たちによって分割されていました。

ところで周のこの分権統治が古代イスラムや古代インドの請負統治と違っていたのは命令者と服従者とが血縁関係にあったということです。中国の歴史はまさに古代から21世紀の今日まで家族主義で貫かれています。彼らの血縁関係が濃い状態のままであれば周王と侯王たちとは親密な関係を築き、国内はそれなりに安定する。しかし半世紀、あるいは一世紀を経て彼らの血縁関係が薄くなる、あるいは消滅すれば彼らの関係は疎遠なものとなり、侯王たちは自立を強めていく。

血縁関係は原初的なもの、生まれついてのものであり、一種、破壊的な力を持ち、それだけでほとんどすべての事柄が解決される。契約や約束事や時には法さえも血縁関係の前では無力になることがある。そのため血縁関係は分権制であろうとどんな制度であろうと容易く支えることができた。その点、周の分権制は家長と家族の単純で親密な結びつきの拡大版のように見える。それは中世の封建制とは全く違う代物です。ですから血縁関係が消滅すると彼らは他人となり、そして一気にむき出しの力関係が前面に現れる。分権統治は風前の灯です。

血縁関係の消えた時、周王と侯王との間に残るものは力関係だけです。各地の侯王は独自の支配を強化し、周王を裏切り離反していく。それは結局、戦乱の世をもたらし、周の国は四分五裂となります。これもまた古代国の典型的な盛衰のお話です。力が物事を決める、それは古代イスラムや古代インドの分権統治と変わりありません。

中国ではその後、古代の分権制は廃止されその反対の統治制度である中央集権制が一般的なものとなり今日まで続いています。2000年の間、博愛に満ちた王も現れましたし、暗愚な王もいた。いずれにせよ中国には古代王の専制政治が連綿として続いてきました。武士も誕生せず、双務契約も開発されなかった。

一方、中世の分権制は古代の分権制と決定的に異なっています。中世の分権制は血や力で支えられていません。それは双務契約によって支えられています。双務関係は古代には存在しなかった新しい人的関係です。

先ず重要なことですが、12世紀、頼朝や領主たちは自らの土地を持つ自立した武士であった。頼朝は鎌倉の地を領し一方、領主たちも下総や三浦などそれぞれ独自の領地を確保していた。頼朝は彼らに土地を恵んでやったわけではありません。両者は土地や権力をすでに自力でつかんでいた。その点、彼らは対等であり、そして仲間でした。

一方、古代において自立する者は絶対者である王だけでした。王の地方官や王の血縁者たちは彼の服従者であり、自立していません。王は彼らと対等でもなく仲間でもなかった。王は自分の都合から彼らに権力を恵み、彼らを自立させた。土地や権力は王の贈り物でした。

関東の地はいくつもの領地に切り分けられそれぞれの領地で自治が行われていた。頼朝と領主たちは互いの土地と自治を認めそこに侵入せず介入しません。それは分権統治です。それでは何故、彼らは分権を認め合ったのか。彼らは他人同士であり、血縁者ではない、そして上下関係によって結びついてもいなかった。

関東の地にも平安時代から続く不輸不入の権が存在した。荘園領主の持つ特権です。武家の盟主となった頼朝はこの制度を踏襲して領主たちの領地を認め介入しなかった。それでは何故、頼朝は不輸不入の制度を否定せずそのまま踏襲したのか。それこそが中世封建制の核心です。

当時の関東の地は無政府状態に近かった。頼朝や領主たちはそれぞれ自立していました、しかし常に不安を抱えていた。自分の領地がいつ、誰かに奪われてもおかしくはないからです。そんな混乱した状態の中、領主たちは安全保障を希求しそして頼朝との協力体制を模索した。彼らは頼朝に彼らの力である武力を与えた、そしてその見返りに頼朝から彼らの領地所有と自治を認めてもらう。忠誠(武力)と本領安堵(権威)の交換です。その結果、彼らの領地所有は公的なものとなり、彼らは確かな自立と安全を手に入れた。相互不可侵条約の成立です。それはすなわち関東の地が領主たちによって公的に分割されたことを意味する。関東の地は複数の支配者が並立する分権体制の国家となった。

ですから不輸不入の制度は鎌倉時代においても継続されていましたが、それは新しい思想の下で衣替えしたといえます。つまり武家の相互補完の思想が閉鎖的で排他的な治外法権を自治権という自主性の確立した、生産的で開放的な権利へ変身させた。古代から中世への移行です。

それは双務契約でした。他人同士、そして対等な者同士のギブアンドテイクの冷徹な取引です。ここには血縁関係もない、力の強いものが一方的に弱いものを服従させるという力の行使もない。それでいて頼朝や領主たちは関東の地に相互承認(分権制)をもたらした。それは相手を認める平等主義と相手を支える相互補完の思想が開発されたからです。そしてそれは中世封建制の誕生でした。

双務契約を維持するため中世人は不断の努力をした。契約義務を忠実に果たすため、つまり契約を維持し自己の安全を確保するため誠実さや責任感などの新しい精神が中世人の中に育まれる。誠実さや責任感が無ければ契約義務は果たされず、その結果、両者の相互信頼は破綻し彼らの安全保障は消えてなくなる。危険な無政府状態に逆戻りです。

尚、双務関係と似た言葉で互恵関係という言葉があります、いずれも両者が仲良く協力し合う関係です。しかし二つは全く違う意味を持っている。双務関係において当事者双方は文字通り相手に対する義務を持っています。しかもその義務は両者にとって死活的な意味を持つ。従って自然なことですが双務契約は当事者に真剣で誠実な生き方を促します、特に武士は戦乱の中、自分の命を捨ててまでも敵から契約相手(封建領主)を守ります。

それは極限の義務遂行であり、きっちり対等で冷徹な関係を表しています。というのは自分の土地を領主によって安堵されることで武士はその土地所有と自治を認められているからです。もし本領安堵が得られなければ彼の土地は瞬く間に他の武士や領主に奪われてしまう、少なくとも常に怯えて暮らさなければいけない。安全保障の喪失です。江戸時代のような平和な時代は別として武士は一匹狼では生き伸びることはできません。本領を安堵する領主は武士の命を支え、ですから武士も領主の命を必死で支えるのです。

一方互恵関係において当事者は義務を持っていません、言わば相手に対し無責任のままでよいのです。そのため互恵契約者は特に緊張感をもつことなく、強い生き方を強いられることもありません。力のあるものはそれなりのものを相手に与え、力のないものはそれなりに応えるという、責任感を伴わないぬるい協力関係です。それは牧歌的で微温的な関係であり、しかも古代の朝貢の香りさえする、そして両者の間には暗黙の上下関係すら見え隠れする。このように古代的ともいえる互恵関係は冷徹な契約社会の中世には似合わない。勿論、現代社会にも。

古代イスラムや古代インドや周の国で行われたとされる封建制は<古代の分権統治>といえるものです。古代の支配者層を結びつけているものは血縁関係や力関係だけです。血縁関係はいつか途切れるもの、あるいは偶然に途切れるもの、そして力関係は相手次第の不安定なもの。血や力という原初的な手段だけで辛うじて支えられている古代の分権体制が長続きするはずがない。対立や争いが頻発することは当然です。古代の分権制は脆い。

しかも古代の封建制というものはあくまでも支配者層における分権制です。被治者たち、すなわち兵士や農民は支配者たちから一方的に支配される存在であり、分権統治から除外されています。彼らは支配者たちの奴隷、あるいは奴隷に近い立場にあり彼らの権利や自治は全く認められていません。そこには武士や自立する農民は誕生していない、従って兵士や農民はいかなる双務契約からも無縁です。つまり古代の分権制はほんの一握りの人たちのものです。それは古代社会であり、封建社会とは言わない。

日本や西欧の封建制が真の封建制であるとすれば古代イスラムや古代インドや周の封建制は偽物ということになります。あるいは日本や西欧の封建制は中世の封建制、そして他方は古代の封建制といえるでしょう。そして中世の封建制とは双務契約で裏打ちされた分権制のこと、あるいは双務契約と分権制との結合した制度と定義できるでしょう。

以上のことから封建制には二種類あること、古代の封建制と中世の封建制があり、そしてそれぞれは異なった制度であるということが理解されます。歴史学者はこの定義に同意するでしょうか、それともしないでしょうか。もししないのであれば新しい定義を示してほしいものです。いずれにせよ封建制という言葉が正確に定義されるなら歴史は今よりはるかに精確にそして深く理解されていくことでしょう。

武士と騎士の違い

日本は世界史上、最も明確な形で中世化革命が行われた国です。日本において古代王朝は自滅したのではなく、武家との戦いに敗れ崩壊した。両者の覇権争いは断続的に行われ、2世紀もの長い歳月が費やされた。12世紀から14世紀までです。その結果、古代の支配体制はその都度改められ、武家の体制へと大きく変化していった。支配者の交代と共に、政治も安全保障も地方行政もすべての支配体制は武家独自のものとなった。

12世紀、関東の地の武士団たちの棟梁は元下級貴族であり古代王朝の役人でしたが、彼らは任期を終えても都に戻ることなくその地に住み着いて封建領主へと変身していった。自力で荒れ地を開拓し、あるいは隣の耕地を略奪した。それでも都のことは忘れられず古代王朝の権威や貴族の贅沢な暮らしや都の賑わいなどは依然として彼らの憧れの対象であった。しかし関東の現実は厳しくそれは夢でしかなかった。そして殺生を目的とする荒々しい武力の行使が彼らの生き方となった。

日本には荘園領主と封建領主とが別々に存在した。一方は古代の支配者層である公家(や寺社)であり、他方は中世の支配者である武家です。そして武家が公家を葬り去った。これは世界史上、日本だけに起きた現象です。西欧では古代国(フランク王国)が自滅したため西欧には二都物語は起こらず、荘園領主本人がそのまま封建領主へと変身していったからです。二者は同一人物です。つまり古代王国の貴族はそのまま騎士となった。

特に頼朝が幕府を開いたことによって日本には二都が成立した。その結果、王朝は単なる憧れの対象ではなく、武士たちの協力者であり時には対立者となった。そして自然なことですが武士たちは王朝や貴族を客観的に眺めることになる、それは同時に彼らに武士の立場、武士の思想、武士の生き方などについて深く考えるよう促した。

武士は彼の支配を正当化するため自己証明を必要とした。武士は貴族との違いを説き、むしろより優れていることを主張した。公家の優美で贅沢で軟弱で迷信深い性格に対し、武家は武威を誇り質実剛健の気風を掲げた。それはいわゆる侍の生き方であり贅沢をせず、禁欲的であり、そして現実主義です。そして裁判制度においても武家は公平を旨として裁判を行い、しかし権力や自己都合による判決を排除することに努めた。それは武士の誠実さや清廉さや現実主義の重要さを表すものであり、人々の信頼を勝ち取るためのものでした。こうして日本の中世は支配者像の点において古代と大きく変わった。

日本では全国統治の方法も古代と中世とでは全く異なる。知行国制は公家を中心とする古代王朝の中央集権統治です、一方大名領国制は武家による中世の分権統治です。室町時代、力ある武士は古代王の派遣する地方長官あるいは知行国主を追放し、その地を丸ごと所有し一元的に統治し始めた。彼は守護大名と呼ばれ古代王朝から自立し、その地を支配しその地位は半ば永続的に世襲された。いわば彼はその地の王です。それは廃県置藩と呼ばれるべき大変革であり、中世化革命の総決算といえます。中世とはこの廃県置藩と明治維新に断行された廃藩置県との間の世紀であるともいえます。その場合、鎌倉時代は古代と中世とが同居した過渡期の時代であったといえるでしょう。

一方、西欧では古代の支配者と中世の支配者との覇権闘争は発生しなかった。ですからフランク王国の自滅とそれにより引き起こされた混乱に際しても荘園領主の荘園(領地)の多くは誰かに奪われることなく彼本人が引き続き支配した。それでもその無政府状態の中、自分の領地を近隣の獰猛な領主たちから守るため彼は武力を必要とし武力を身につけた、そして封建領主と改名し武威を誇った。こうして貴族は騎士へと変じた。ですから貴族と騎士とは同じ者であり、日本のように貴族と武士とが別人物であることとは異なる。

中世西欧において革命的であったことは封建領主(=荘園領主)が中世式の統治法を開発したことです。双務契約と分権制統治です。特に古代の中央集権体制が崩壊した後、封建領主たちは完全なものとは言えませんが互いに不可侵を約束した。そしてほどなく彼らの盟主が現れた時、その不確かな約束は明確な分権統治へと定まっていった。

しかし西欧ではこうした双務契約や分権制以外の統治の多くは古代体制がそのまま引き継がれた。ですから騎士はフランク王国の文化や伝統を拒むことなく、そして一方的に排すことなく古代の多くを引き継いだ。従って騎士は貴族的な優雅な気風をも宿し続けた。彼にとって武威を誇る以外、新たな自己証明は特に必要はなかった。

これが武士と騎士の根本的な違いです。日本では古代から中世へと移る時、支配者も支配体制も社会も思想も根底から変わった。それ故、日本の中世は西欧の中世とは違い古代との相違が明瞭でそして対比的なものとなった。その点、日本の中世は世界史上、最も純度の高い中世であるといえます。